乱暴な 言葉言われど 冷静で 穏やかな人 涅槃の境地 (134)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


サチェー   ネーレースィ   アッターナン
Sace     neresi       attānaṃ,
もし     動かさない    自己を

カンソー  ウパハトー   ヤター
kaṃso    upahato     yathā;
銅鑼    壊れた     ように

エサ    パットースィ    ニッバーナン
Esa     pattosi       nibbānaṃ,
この者  得た者である   涅槃を

サーランボー  テー     ナ   ウィッジャティ
sārambho    te       na    vijjati.
憤激は     あなたに  ない  見出さ


○直訳
壊れたドラのように
もし自己の(心)を動かさない(ならば)
あなたはこの者、涅槃を得たものである
あなたに憤激は見出せない


○一口メモ
この詩は、昨日の詩の続きと見る方が、理解しやすいのですが、独立した詩としても理解できます。

すなわち、続きとしてみる時は、乱暴な言葉を投げ掛けられても、心は冷静、平静で動揺しないという意味になります。その様子を壊れたドラに例えているのです。壊れたドラは叩かれても音を出さないからです。

独立の詩と見るならば、心に対するどんな外部刺激にも、冷静、平静で動揺しないという意味になります。

長い期間、人里離れた森の中で、瞑想修行したり、あるいは気の合う、心の優しい人々だけに接していると、心が苛立ったり、怒ったりすることがなくなります。そのような時は、自分の修行が進んだと思います。

しかし、それが本物かどうか、森から出て、街に入るとすぐに分かります。もし、本物であれば、街に入っても、心はいつも冷静、平静で動揺がありません。本物でなければ、外部の刺激で、心は動揺して、平静を失うのです。乱暴な言葉にあえばすぐ怒りが現れます。

本当に、心が冷静、平静で動揺しない人には怒りという煩悩がないのです。このような人は、怒りがあるけれども、その怒りを抑えていることとは違います。怒りの基がないのです。

阿羅漢はすべての煩悩を智慧の力で捨てているのです。怒りの煩悩が完全にないと言うだけで阿羅漢だとは言えませんが、この詩ではどんな外部刺激にも、壊れたドラのように心の動揺がないと表現されていますから、怒りや欲やその他の煩悩がない人だと思います。
このような人は阿羅漢と言い、涅槃の境地にいる人だと言うのです。


「乱暴な 言葉言われど 冷静で 穏やかな人 涅槃の境地」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200904/article_3.html
http://76263383.at.webry.info/201002/article_10.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年07月17日 05:24
おはようございます。

壊れたドラのような、という例えは言いえて妙だと思います。
打たれても響かない、ということですよね。
あこがれます。
とも
2012年07月17日 06:59
おはようございます

自分の周りには食欲、性欲を刺激する物が多く、嫌いな人がいます。修業の環境としては最悪だと思っていましたが自分の程度を見るのには良いのかもしれません。
これらが気にならないぐらい心を成長させるように頑張ります。煩悩あるところに修業有り。
2012年07月17日 07:34
おはようございます。
確かに本当に「悟っているかどうか?」「しっかり仏教が身についているかどうか?」の判断基準として、何か予期せぬ事態が起こった時に自分の心の中に「怒りや慌てること等」がないかどうか?があると思います。

教義上、完全に怒りがなくなるのには第三段階の不還果に悟らないとなくならないようですので、本当に自分の心の中から、欲や怒りがなくなったならば、たいしたものだと思います。
不還果に到達した人は、恐らく競争社会の馬鹿げたサラリーマンなどは中部経典等の実例から見ても出来ないと推測致します(^_^;)。

僕など想像だに出来ない「壊れたドラ」のような境地に、できれば自分の身体が放射線障害でイカれる前に到達してみたいなぁと思います今日この頃ですm(_ _)m。
noritarou
2012年07月17日 09:58
>自己の(心)を動かさない(ならば)
心は絶えず対象に寄り添い動きます。その自己の心を、対象に(執着して)動かさないならば、と理解しました。動揺しない、混乱に混乱されないとは、怒りが生まれても怒りに呑み込まれず、コントロールせず、ただ冷静に生滅変化を観察する透徹した自己をよりどころにすることだと思います。
あすか
2012年07月17日 10:01
周りの言動について、
「不快」だけれど「我慢」する。
というのは相当しんどいですが、
相手は怒りに苦しんでいるんだな、
と受け容れられると心は穏やかです。
これがなかなか難しい。^^;

133,134とペアで見ていましたが
独立して見ることもできるのですね。
言葉を刺激に拡大してみましょう。
暑いのを「我慢」するのはきついです。
こういうものだと受け容れられると
不思議にそれほどつらくないのです。
うまく言葉で表現できないのが
とてももどかしいのですが。

寒さにも同じように通用するのか、
この冬、試してみるのが楽しみです。
こころざし
2015年11月21日 07:38
静かに冥想実践をしている時は心が穏やかでも、日常に入ると様々に平静でいられない自分がいて、凡夫を感じます。
ですがその日常の中でも動揺しないような割合を増やしたいと思っています。
外部からの刺激で容易に怒りや嫉妬、欲、悲しみ当の感情が出ますが、そこでサティして止まれるように、引っ張って拡大させないように努めます。