もろもろの 苦行はあるが 意味はない 疑惑の人を 浄化はできない(141)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ナ   ナッガチャリヤー  ナ   ジャター  ナ   パンカー
Na   naggacariyā      na    jaṭā    na    paṅkā,
ない  裸身の行      ない   結髪   ない  泥塗り

ナーナーサカー   タンディラサーイカー  ワー
nānāsakā        thaṇḍilasāyikā      vā;
ない 断食      露地に臥すこと     或は

ラジョー チャ   ジャッラン  ウックティカッパダーナン
Rajo   ca    jallaṃ     ukkuṭikappadhānaṃ,
塵    と    埃      しゃがんだ 努力

ソーデーンティ  マッチャン  アウィティンナーカンカン
sodhenti      maccaṃ    avitiṇṇakaṅkhaṃ.
清め        人間を    疑惑を越えない


○直訳
裸身の行、 結髪、泥塗り
或は断食、露地に臥すこと
塵と埃、しゃがんだ努力は
疑惑を越えない人間を清めない


○一口メモ
 仏教の道は、もちろん五欲を満たそうとする快楽の道ではありませんが、苦行ではないのです。それは中道です。中道とは八正道です。今回の詩の「疑惑を越えない人間」とは、釈尊の教える中道について、理解できずに、疑いを持つ人のことを言うのです。これらの人は、いろいろな苦行を行いますが、決して、修行の目的を達成できないのです。それらの苦行は釈尊が6年間の苦行の修行で、それらが無意味であることを実践的に確かめたことなのです。(前々回のブログ記事より)

前回のブログ記事は「スマナサーラ長老のこの詩に関する説法」に基づいて書いてあります。「どこまで他人に頼りますか」~心が清らかにならない行は修行にはなりません~
http://www.j-theravada.net/howa/howa59.html

今回は、六師外道(ブッダの時代の宗教界の革命家たち)に関連して説明します。
(参考文献:スマナサーラ長老著「初期仏教経典解説シリーズⅠ『沙門果経』」)
プーラナ・カッサパ(非業論をとく哲学者)、マッカリ・ゴーサーラ(完全な「定め論」を説く)、アジタ・ケーサカンバラ(厳密な「唯物論」の哲学者)、パグダ・カチャーヤナ(絶対的な「七つの元素論」を説く唯物論者)以上四人のグループは道徳を否定していましたので、ブッダは彼らを認めませんでした。

五番目はニガンダ・ナータプッタ(唯一の「道徳肯定」と「苦行」を認める)で、ジャイナ教の開祖です。ジャイナ教は道徳に関しては厳密でしたので、ブッダはその点は認めていました。しかし、修行方法に関しては完全に否定していました。

ジャイナ教では「魂は永遠であって全知全能だが、過去で悪いことをしてきた我々の魂には汚れがいっぱいだ。今苦行をしてそれを除かなければいけない。」と考えています。ジャイナ教では汚れは「カルマ」という物質なのです。身体は魂についた汚れ(カルマ)なのです。ですから、例えば、断食は食べることを止めて、カルマを受け入れることを止めると意味です。ジャイナ教では苦行でカルマを除き、解脱すると考えているのです。

ちなみに、仏教のカルマは物質ではなく、「意志」です。

六番目はサンジャヤ・ベーラッティプッタ(認識の問題を追求する不可知論者)です。彼はサーリプッタ長老、モッガラーナ長老がゴータマ・ブッダに帰依する以前の師としても知られています。しかし、厳密な認識論は詭弁になり、詭弁は役に立たないのです。今回の詩の「疑惑を越えない人間」はサンジャヤのグループに対する批判ともとれます。

以上の他に、修行者も修行者を見ている人々も苦行は好きなようです。苦労して修行していれば修行をやっているように思います。その修行で心が清まり、成長しているか注意しておくことは大切です。


「もろもろの 苦行はあるが 意味はない 疑惑の人を 浄化はできない」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200904/article_7.html
http://76263383.at.webry.info/201002/article_14.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年07月21日 05:53
おはようございます。

食事の適量を守るより、食事を抜いてしまった方が楽なのではないか、と思ったことがあります。
心に怠けが入っていたと思います。
断食修行は怒りの心がさせているのだというような意味の説法を、どこかで聞いた覚えがあります。
それから極端に身なりにかまわないことも、怒りの心からだという話も聞いたことがあります。
どちらもやってしまったことがあるので注意しようと思います。

極端な修行をしたくなるのは苦しいときです。身体があるから、苦しみから逃げられないのだ、と考えたように思います。カルマとは物質である、という誤った考えを持っていました。
カルマは意志なのですね。
ひとつ覚えました。ありがとうございます。
とも
2012年07月21日 06:41
おはようございます
 テーラワーダ仏教に出会う前、断食にはまっていました。一日断食を繰り返し体の調子がよくなったので、欲を出して三日間断食を行い、頭痛吐き気、貧血などでかなり苦しみました。
今はしていません。確かに正しい断食は体の健康にはよい効果があると思いますが、心に関してはよくなるどころか健康への過剰な執着を生みます。
 体の健康に関しても、毎日の瞑想や気づきを保つこと、ブッダの教えを学ぶことの方が断食のそれより効果は絶大です。
もし断食をする場合、よく本やインターネットで勉強して行って下さい。経験(失敗?)者からのアドバイスです。(..;)
nori
2012年07月21日 10:49
どうして苦行に魅力を感じるのでしょうか?マラソンを見るのが好きとかもそうだと思います。私の理解では、苦行はしたくてするものだと思います。走りたくて走るように。その意味では欲なのかもしれません。あまりにも身体が火照ると、滝などの強烈な刺激で身体を鎮め心を静かにしたくなりますし、身体の反応を鎮め心に静けさが欲しくて、断食など異物を入れたくなくなります。ただ、それをすることでどんなに満たされたとしても、ずっとその状態でいることは出来ません。何をしても現実世界に戻らなければいけません。なので私は、日々の中で、その時々に心の汚れに気付くこと、忍耐すること、平和でいること、貪瞋痴という心の汚れから自然に離れられるように精進したいと思います。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
あすか
2012年07月21日 11:18
 苦行、やみくもな頑張り、我慢は
漫が「すごいだろう」と喜びます。
 無理な断食もまた苦行でしょうか。
少量でやめるより楽に感じます。
けれど素人が自己流では危険、
食べ始めた時が大変です。^^;
食は毎日向かい合わねばならぬ
よい修行の機会ですね。
 話題の断食にしても、
本来の目的からずれてくると
無意味どころか逆効果です。
きつい作務をこなされる禅僧の方が
「薬」として午後も軽く召し上がったり、
瞑想指導でもお茶の時間をもうけたり、
なども参考に、形ではなく、
より清らかな心で精進できるのは、
という方向でいろいろやってみます。
 食にかぎらず、
怠けて自分を甘やかすことなく、
逆に厳しすぎていじめることなく、
一段高い目標で律するというのは
なかなか難しいですね。
============
ウポーサタ、それぞれでですが
みんなきっとつながってますよ。
在宅ウポーサタ?おうちウポ…
何かいい呼び名あればいいのに。
毎日の瞑想もしかり、です。^^
ささ
2012年07月21日 12:35
信仰深かった祖母が入信した、先祖供養の団体に生まれつき入っています。もう何年も前になりますが、寒い時期の夜中からはじめる水行や読経、登山修行などにも参加していました。真剣に考えるほど矛盾を感じ、今は参加を遠慮しています。

スマナサーラ長老の著書に出逢えた時、やっとずっと探していた本当のことに、たどり着けたという気持ちでいっぱいだった事を覚えています。

カルマが意志とはなるほどと思いました。日々自分の意志に気づきながら心をきれいにしていけるよう気をつけたいと思います。

カエルくん、ありがとうございます。
数日前に、職場にノーメイクという事実に気づき、日焼けどめを朝と昼に塗り直そうという考えにいたりました。

ただ、気が休まらないのは本末転倒なので、次回からはベースクリームのみは塗っていこうかなと考えています。
夕飯を抜いたのは、かえって調子がよかったです。次回からはカエルくんもと思うと、また楽しみです。

何かに取り組む時、心が成長しているかどうかに気をつけてつとめていきたいと思います。
こころざし
2015年11月22日 07:54
苦行をすれば良い・・みたいな発想になると無知状態になってしまうと思います。
心が安定するように、冥想実践をして心の観察をし、そして心を制して参りたいです。これは苦行ではない、とても理に適っているように感じます。日々実行して参ります。