注意して ムチに打たれぬ 馬のよう 恥知って 悪事を避けよ(143)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ヒリーニセードー  プリソー
Hirīnisedho     puriso,
慚により制する   人

コーチ  ローカスミ  ウィッジャティ
koci    lokasmi    vijjati;
誰か   世に     見出される(か)

ヨー    ニッダン  アパボダティ
Yo      nindaṃ   appabodhati,
その人は  非難を   気にしない

アッソー  バドゥロー  カサーミワ
asso     bhadro    kasāmiva.
馬が    善い     鞭に対するように


○直訳
慚により制する人
(そのような)誰か世に見出される(か)
その人は非難を気にしない
善い馬が鞭に対するように

○意訳
善い馬が鞭を恥じ、恐れるように
悪行為を恥じて、自己を制御して
悪行為を非難されることを恐れる(悪行為をしない)
そのような人は少しいる


○一口メモ
今回の詩に関しては、始めに白状しておきます。今まで気楽に読んでいましたが、今回調べてみて、原文に異なるものがあり、本来の意味を確定できないのです。
niddaṃ とnindaṃ があります。
niddaṃ は辞書では、nddā 睡眠という意味です。
nindaṃ は辞書では、nindā 非難という意味です。
apabodhatiと appabodhati があります。
apabodhati は a+pabodhati・・・目を覚まさない。或は(鞭)を避ける。
appabodhati は appa+bodhati ・・・気にしない。
その他いろいろな組み合わせがあります。
ですから、一応の意味を推定以外はありません。

私の意訳を書いておきました。仏教で「慚」(ザン)と言えば、「愧」(キ)です。
すなわち、私たちが道徳を守る時に必要な二つの心の働きがあるのです。それが「慚」「愧」なのです。
「慚」は自分の良心とかプライドに対して恥ずかしいと思うことです。たとえば、嘘をつくなどは自分のプライドが許さないという態度で道徳を守るのです。
「愧」は、例えば自分の悪事が他人に知られて、非難されるのが恐ろしいという理由で悪事を働かないことです。

善い馬が鞭で打たれることを恥じ、恐れるそのように、自分の良心に恥じて、或は人に非難されることを恐れて、悪いことをしないと言うことだと思いますが、パーリ語の原文で「非難を気にしない」という訳では、このような意味には取りにくいということがあります。
「鞭を避ける」という意味に取れば、「非難を避ける」という意味に取れると思います。
何とも、あいまいな説明で申し訳ありません。
今後もいろいろ検討し、識者の智慧を借りたいと思っています。


「注意して ムチに打たれぬ馬のよう 恥知って 悪事を避けよ」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200904/article_9.html
http://76263383.at.webry.info/201002/article_16.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年07月23日 04:59
おはようございます。

小学生の頃、先生に叱られて教室で正座をさせられたことがあります。
正座が辛いわけでなく、ただものすごく恥ずかしかったことを覚えています。

同じように、長老方に叱られるようなことは慎まないと、恥ずかしい思いをするのだな、と思いました。

今日も一日精進します。
とも
2012年07月23日 06:22
おはようございます
慚愧の念に堪えない、などと使われますが慚愧とはこの様な意味があったのですね。勉強になりました。

馬のように鞭で調教してくれる人がいれば楽なんですけどね

自分で自分をしつけます。

2012年07月23日 07:40
おはようございます。土曜日のスマナサーラ長老講演会は長時間に渡って大変勉強になりました。
特に僕の個人的理解による印象に残った質疑応答のポイントは、
「子供のイジメは(今回の問題が仮に解決されたとしても)いつの世にもある。」
「元々この社会の経済そのものがイジメである。」
「現在の経済というのは弱者を搾取して成り立っている。」

「元々生命は弱者を食って強者が生き残ろうとするもの。だから子供のイジメにしても大人の社会にしても社会的弱者をイジメるのが(本能)である。云々」

なるほど今の政府官僚財界、NHK読売朝日等マスコミが消費増税、原発推進、小沢叩きするのは「当然」の「成り行き」でしょうね(笑)。
2012年07月23日 08:09
あと、スマナサーラ長老が日本で仏教を教えるに際して考えた事が、「物質偏重主義や何でも上から言われた事しかやらない羊の群れのような脳みそしかない日本人には本来の仏教は無理、見込みなし。
なので日本での布教は一億回以上失敗すると覚悟していた(笑)。
なので世の中の事はまず失敗するのが当たり前。だから皆さんが何かにトライしても失敗するのが当たり前で一万回に一度成功するくらいなもの。
なので、1、2回の失敗では落ち込まないように」(←以上僕の個人的記憶の概略)と励ましておられた事が大変勉強になりました。

そういう意味でこのワンギーサ先生の日々のブログは大変有り難く、感謝の想いで一杯です。m(_ _)m
noritarou
2012年07月23日 11:20
蒼氓さん、講演会の法話をシェアして下さってありがとうございます。勉強になります。
テーラワーダ仏教ほど、真理について明確に的確に実践的に、誰にでもわかりやすく、膨大な量を説いている宗教を私は他に知りません。
ワンギーサ先生、いつもありがとうございます。

貧しくて、生きるために食べ物を盗む子供たちがいます。そのことに私は共感してしまいます。快楽や恐怖、ひもじい思いという身体感覚からも、思考は悪にコントロールされてしまうという意味では同じことですが。
自分や家族が危機にあるときに、清らかであることを望むことは、大変尊いことだと思いますが、正直、私には難しいです。なので私は、地獄に落ちるだろうと思います。そして落ちた地獄で、蜘蛛の糸を見つけるための善行為を私は今、しているように思えます。
あすか
2012年07月23日 17:00
もう知っている、わかっている、
で済まさず、常に学んでらっしゃる
ワンギーサ先生の姿勢、敬服します。
ダンマパダの原文といっても
ひとつではないのですね。

>蒼氓さん、ありがとうございます。
一億回の失敗と長老らしく(?!)
ユーモラスに表現なさってますが
相当な厳しさを覚悟での活動、
頭が下がります。

葬儀がありました。いろいろ
考えるよい機会になりました。
人生今日で終わりかもしれません。
悩んだり落ち込んだりしていては
もったいないですね。
仏道を学び実践できる恵まれた
時間を無駄にせず精進します。
こころざし
2015年11月23日 08:41
ワンギーサ長老の、パーリ語を訳す時の姿勢、特に意訳の根拠のような紹介を拝見し、理由を教えて頂けたような気持になりました。とても説得力を感じます。
私事ですが職場・高齢者介護の職場でやってはいけない事があります。変な例えですが業務上過失致死罪が適応しかねない状況になります。そのまずさを指摘しても響かない方は、頂けない流れになります。
恥を知り悪事を避けるような生き方を実践して参りたいです。