見なさいよ、飾られている この肉体を 病に犯され 歳をとるだけ(147)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


パッサ  チッタカタン  ビンバン
Passa  cittakataṃ   bimbaṃ,
見よ   飾られた   肉体を

アルカーヤン   サムッスィタン
arukāyaṃ      samussitaṃ;
傷のある肉体を   よせ集められた

アートゥラン   バフサンカッパン
Āturaṃ     bahusaṅkappaṃ,
病のある   思いの多い

ヤッサ   ナッティ  ドゥワン  ティティ
yassa    natthi    dhuvaṃ  ṭhiti.
そこには  ない     恒常の   生存は


○直訳
見よ、飾られた肉体を
よせ集められた傷のある肉体を
病のある、思いの多い(肉体を)
そこには恒常の生存はない


○一口メモ
自分の身体をよく観察して見ると、いろいろなことが分かってきます。
眼について言えば、中学生くらいで近眼になる人は多く、眼はメガネやコンタクトレンズで飾られるということになります。近眼にならない人も、40歳代になると、老眼がはじまります。いずれ老眼鏡という飾りが必要になります。

歯はどうでしょうか。虫歯になれば、治療して、虫歯の部分に飾りをつけます。歯茎が痛んで歯が抜ければ、入歯という飾りが必要です。

髪の毛は、年を取れば、白髪になるか、抜けていきます。白髪の人は黒く染める人もいますし、髪の毛が薄くなった人はカツラで飾る人もいます。

身体の外部のみでなく、内臓についても老化や病気で使えなくなったものは、移植などを行います。

この身体はいろいろな組織や臓器で構成されていますが、どれ一つとして、変わらない、若さを保つものはありません。すべて、老化し、病変し、壊れていくのです。この事実を嘆くことなく、悲しむことなく、受け止められる人の心には何があるのでしょうか?
真実を知った人の明るく生きる智慧があるのです。

この詩の肉体の観察を、瞑想にした方法が「長部経典第22 大念処経」などに書かれています。
身随観
(厭逆観察の部)
「つぎにまた、比丘たちよ、比丘は足の裏より上、頭髪より下の、皮膚を周辺とする、種々の不浄に満ちた、この身を観察します。すなわち<この身には、髪・毛・爪・歯・皮・肉・筋・筋・骨・骨髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺・胃・腸・胃物・大便・胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪・涙・脂肪油・唾・鼻液・関節液・小便がある>と。」

比丘の出家儀式の際、剃髪する時、剃髪される人は「髪・毛・爪・歯・皮」と繰り返し、念じ、それを観察するのです。その間に悟った比丘もおられるということです。
この身体の観察からは、この例のように偉大な智慧が生まれるのです。


「見なさいよ、飾られている この肉体を 病に犯され 歳をとるだけ」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200904/article_12.html
http://76263383.at.webry.info/201002/article_19.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

とも
2012年07月27日 08:35
おはようございます
数年前ストレスで白髪が増え抜け毛が激しくなり人前に出るのが苦痛で本気で死のうと考えてた時がありました。
今から思うと無知もいいところです。
しかしまだ健康な体綺麗な体にこだわっているところがあるのでもっと執着を減らしていきたいと思います。
あすか
2012年07月27日 10:23
以前、容姿の衰えはショックでした。
病も不具合も増えてきます。だいぶ
受け容れられるようになってきたものの
正直申しますとまだ抵抗もあります。

清潔にしても、すぐ汚れ、汗もかき、
この時期、ニオイなども気になります。
つくづく体は不浄な物と実感します。

欲や怒りのモトでもありますが、
この体を通してしか
学びも実践もできません。
今世でのよき「パートナー」として
執着することなく、さりとて、
ぞんざいに扱うことなく、
体と上手につきあっていきます。
健太郎
2012年07月27日 14:01
ワンギーサ様、こんにちは。

身体は、それを構成するすべての部分が、
どうしようもなく劣化し壊れていくものである、
ということが事実であると頭では納得しました。

しかし、そのことを認めたくない、
という怠け心が、少し残っています。
怠けを乗り越え、心だけはしっかりさせられるように、
観察と修習を続けます。

一つ疑問が浮かんだのですが、
身体の不調な部分を手当てする際
(ここで言えば「飾りをつける」際)、
「病気に逆らいたい」という事実に逆らう暗い感情が、
とても紛れ込みやすいように思います。

これを避けるための良い工夫はあるのでしょうか?
ワンギーサ
2012年07月27日 16:15
健太郎さん、こんにちは。お問にお答えします。
「病気に逆らいたい」という事実に逆らう暗い感情は無知・無明からくるものです。
肉体は老化し、病気になり、死ぬものであると言う事実を逆らえないものとして、認められないからです。無明があるからです。
実は事実を事実として認めた時に、人は安心し、明るくなるものですが、
その体験がほとんどありませんから、そのようには思えないのです。
簡単な例では、走っている電車が急にとまり、そのまま待たされると乗客は不安になり、イライラします。その時、例えば「信号故障のため急停車しましたが、復旧のため10分ほどお待ちください。」と車内放送があれば、乗客は安心して落ち着きます。事実を知ったからです。
老化、病気、死は信号故障のように簡単には受け入れないことですが、この事実を繰り返し学ぶことです。
また、老化、病気、死は何かを知らずに、恐れ嫌がっていますが、その本質を知り、恐れる必要はない、嫌がるものではないことにも気づく必要があります。
詳しく、ここでは説明できませんが、心は一瞬一瞬生まれて死んでいるのです。死ぬことは恐れることではないのです。しかし、心は生まれるたびに成長させる必要があります。
そうしなければ、無明の中で生まれ変わるだけだからです。心が成長すると、無明から抜け出て、事実を事実として認める智慧が生まれ、無明はなくなるのです。
肉体の死は怖いと思われていますが、肉体という物質はどうしても変化して、壊れてしまうものです。肉体の死を恐れる必要はありません。しかし、肉体が壊れる前に、無明を破ることが望ましいので、怠けてはいられません。精進する必要があるのです。
慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想の実践が一番効果的な工夫です。
noritarou
2012年07月27日 19:46
私は、死にゆくことがきっかけとなり、より大きなものと1つになれると思っています。制限された肉体から離れ、大安心に還れると思っています。今この瞬間も生きてはいますが、木は、生じても滅してもいないと言われるように、形成された「私」もそのようであると思います。
私には、健康に対する酔い、若さに対する酔いがありますので、徹底的に自己(老いや死)と対峙出来ていないように思います。
穢れた身体ですが、身体について、あまりにも神秘的なその奇跡的な構成を知ると、舌を巻きます。生命が生きているということは、とてつもないことだとも思えてしまいます。これは、人類の文化、思想史的にそう思ってしまうだけで、それにより安心出来て、執着しなければ、否定しなくてもよいと思っています。
生まれてしまったからには、慈悲の気持ちを最大限にまで育てたいと思います。精進します。
健太郎
2012年07月27日 23:34
ワンギーサ様、ありがとうございます。

慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想の実践ですね。
今までの私が、これらの実践を強固な確信のもとしっかり出来ていたかというと、もちろん出来ていなかったと懺悔しなければなりません。

その理由も、実践する時間がなかったのではなく、怠け心に従いしょうもない遊びにかまけたり、睡眠に従ったりしていたためです。

慈悲の瞑想とヴィパッサナー実践だけは、他の人に代わってやってもらうことはできないと理解しております。さらに実践の果を受け、実践には功徳があることを真実か否か確認することも、私にしかできないことだと考えます。

今まで積んだ悪業が多少気になりますが、「精進」(私の記憶では、7月24日の講義でスマナサーラ長老はこれを「小さなことにでもすぐ行動する瞬発力」と表現なさっておりましたね)を続け、変な遊びはなるべくせず、四無量心をどんどん広げてみたいと思います。

私の前途に老病死がある、とのご指導は、仏教徒として最高の祝福と拝受致しました。実際に老病死に直面したらどうなるかわかりませんが、明るい気持ちを保って参ります。何らかの変化がありましたら、また御報告させてください。
こころざし
2015年11月24日 07:56
私事ですが昨日義姉の結婚式があり、小2娘や中学・高校の従妹がドレスがドレスでお化粧をして参加しました。それはそれは華やかで、本人たちも喜んでました。
ですが、お開きになり至福になった時、何時もの子供の姿に戻っていました。着飾る一時の夢のような印象でした。自分的にインパクトがありましたが、ワンギーサ長老のコメント「実は事実を事実として認めた時に、人は安心し、明るくなるものです・・」を拝見し、そのように思うと何のことはない自然な流れと感じました。
無明を破り智慧を持てるように精進して参りたいです。