肉体は 骨肉血でなり 老いて死ぬ 心の慢と 偽善が問題(150)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


アッティーナン  ナガラン   カタン
Aṭṭhīnaṃ     nagaraṃ   kataṃ,
骨で       城      作られ

マンサローヒタレーパナン
maṃsalohitalepanaṃ;
肉と血で塗られている

ヤッタ   ジャラー  チャ  マッチュ  チャ
Yattha   jarā     ca   maccu    ca,
そこには  老い    と   死     と

マーノー  マッコー  チャ   オーヒトー
māno    makkho   ca    ohito.
慢     偽善が   と    置かれている


○直訳
城は骨で作られ
肉と血で塗られ
そこには老いと死と
慢と偽善が置かれている


○一口メモ
この詩の直訳の「城」とは、人間を城に例えた言葉です。
人間は骨で骨格が作られています。
城は柱と梁の骨格に、石を積み、土が塗られているように、
人間は骨の骨格に肉と血が塗られているのです。

しかし、どんな城も老朽化して、いずれは壊れてしまうように、
人間もだんだん老化して、死んでしまうのです。

城には、そこに住んでいる住人がいるように、
人間には心が住んでいるのです。
その心は、慢と偽善なのです。

この詩の意味するところは以上の通りです。
人間の本質を、なにも飾ることなく述べたものです。

ここで、少し考えてみたいと思います。
人間に住んでいる心は慢と偽善なのでしょうか。

人間の心には善い心と悪い心と善でも悪でもない心が住んでいます。
問題な心は悪い心です。この心が人間を苦しめ、不幸にするのです。
ですから、この詩では悪い心について述べているのです。
悪い心の中でも、特に、慢と偽善に注目したのです。

慢とは、自分と他人を比べる心の働きです。
人間はいつも、自分を他人と比べて、自分が優れているとか、他人より劣っているとか、他人と等しいとか考えてしまうのです。
自分が優れていると思えば、高慢になります。
他人が優れていると思えば、卑屈になります。
また等しいと思えば、安心したりします。

心の慢の作用のため、心は絶えず揺れ動き、くたびれ果てて、安心できないのです。
人間が他人と比べないということができれば、どんなに心安らかに生活できるかわからないのです。「比べないこと」を頑張って実践してください。そうすればイライラしないで生活できるようになります。

しかし、この実践に水を差すわけではないのですが、慢の作用は頑固であるため、阿羅漢になるまでが、完全にはなくならないと言われています。ですから、慢がすぐなくならないとくじけるのではなく、失敗してもあきらめずに克服する努力をして下さい。

また、心には偽善という作用があります。偽善は自分も他人もごまかそうとしているために、何が真実か分からなくなってしますのです。心には欲や怒りのような悪い働きがありますが、慢や偽善のなどは欲や怒りを引き起こします。またその欲や怒りを見えなくしています。見えないのでなくせないのです。ですから、この詩では、人間の身体の老いと死について述べると同時に、心の慢と偽善について述べているのです。


「肉体は 骨肉血でなり 老いて死ぬ 心の慢と 偽善が問題」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200904/article_15.html
http://76263383.at.webry.info/201002/article_22.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

あすか
2012年07月30日 09:33
体について述べながら、心として
慢と偽善をとりあげています。
頑固で手強いからでしょうか。
「あぁ、また」と落ち込んでましたが
すぐなくなるものでないと覚悟を決め
これからは少しでも減らす方向で
前向きに取り組んでいきます。
ありがとうございます。

長老のナンダーの法話を読んで
美しければ美しいでまた、悩む。
美しい人が老いを受け入れるのは
美しいほど難しいかもしれません。
厄介なものです。

蒼氓さん
本当の三帰依について、気になります。
直接布施にいくこと、法話をきくことは
やはりすばらしいことですね。
活字で読んだり、映像で見たりとは
全く違うのでしょうね。
雨安居中は在家も共に修行すると
功徳倍増とのこと、精進します。^^
noritarou
2012年07月30日 18:17
慢とは、自分が持っているこの身体、感覚、思考、記憶、感情を自分だと勘違いすることから出てくる煩悩だと思います。それら形成されたものは、苦により成り立っていて、無常であり、無我であると言われます。日々そのことを感じ、それを超越した智慧で体験することが、人間にとって、今生で最大の急務だと思います。
苦しみの中にある、すべての命あるものが幸福でありますように。
カエルくん
2012年07月30日 19:31
こんばんは。

毎日の生活になんとなく満足してしまってます。
自分の中の慢にも気付けずにいます。
まさに偽善の状態だと思います。
改善のきっかけを探しています。
2012年07月30日 20:36
>あすかさん
本当の三帰依については、スマナサーラ長老曰く(概略ポイント)
「仏教の三帰依とは、本当は難しいもの。仏教が好きだとか、ただ信じるとかそういった軽い動機、気持ちで出来るものではない。
よって一般的な人が一般的宗教に接するような態度では、初期仏教の三帰依にならない。

初期仏教の三帰依とは〃納得〃である。
ただ仏教が好きだというような態度ではすぐ日毎に気持ちが変わってしまうし、
心は忘れてしまう。

しかし心が教えに「納得」(体験)した場合は違う。心が変わるという事。その場合忘れないし、他(の教え・宗教)に対しても自分の心がぶれない。

なので本当の三帰依とは預流果に悟るという事。(佛法僧に対してゆるぎない納得・確信)

そしてワンギーサ師からは、〃雨安居中、お寺の早朝は5時から開門し礼拝、読経、冥想と出来ますので皆さんと修行をご一緒し功徳を分かち合いましょう等のご法話を頂きました。
それにしましてもスリランカから再来日されたスダンマ長老のご法話、物腰といい、やっぱり「離欲」の力、サンガは凄いです。佛法僧に直接触れると自分の心にある「無用な不安感etc」はその場でなくなるように思います。
こころざし
2015年11月25日 07:42
比較をしてしまう事日常で良くあると思います。職場では慣れた・出来る方に仕事が集中し、出来ない方はくる仕事が少なく余裕があるような印象を受けるような時があります。公平?とは言えない印象も感じます。そんな中でも比較するではない形で自分の仕事をこなせるようになりたいです。
また本文の「偽善は自分も他人もごまかそうとしているために、何が真実か分からなくなってしまうのです」にとても共感致しました。色々良い事を言っても実態が伴っていない時、容易にこのような状況になってしまうと思います。
私もこちらで学ばせて頂いているものとして、実際の生き方が伴っていないという事がないように気を付けたいです。