傷ないと 毒の中でも 大丈夫 悪ない人に 不幸は来ない(124)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。

パーニンヒ  チェー  ワノー  ナーッサ
Pāṇimhi    ce     vaṇo    nāssa,
手に      もし    傷が   ないなら

ハレッヤ  パーニナー  ウィサン
hareyya   pāṇinā     visaṃ;
運べる   手で      毒を

ナッバナン        ウィサマンウェーティ
Nābbaṇaṃ         visamanveti,
ない 傷がない者に    毒が 近づか

ナッティ    パーパン  アクッバトー
natthi      pāpaṃ    akubbato.
存在しない   悪は     為さない者に


○直訳
もし手に傷がないなら
手で毒を運べる
傷がない者に毒が近づかない
(悪を)為さない者に悪は存在しない


○一口メモ
健康な、傷のない皮膚は自然に存在する毒やばい菌などを体内に入るのを妨げるバリヤーがあるのです。現代では、有毒な化学物質や放射性物質などがありますから、適応できませんが、昔は言えたことです。

この文章で言いたいことは、健康な身体は物質の毒から身体を守ることができるということです。そして、同様に健康な心は、すなわち悪い思いのない心は、悪から心を守り、不幸な結果にならないようにしてくれると言うことなのです。

しかし、ここで考えてしまうことがあるのです。手には蚊に刺された痕があり、引っ掻き傷があるように、私は過去に悪行為をしており、心は無傷ではないのです。私だけでなく、多くの人は貪瞋痴のために、悪行為をしているのです。ですから多くの人はこのように言われても、傷のある心であるため、この言葉は役に立たないと思ってしまうのです。

しかし、ブッダは役に立たないこと、無意味なことは言われないのです。
心は非常に早いスピードで、消滅を繰り返していると教えています。身体の傷が治るためには数日かかると思いますが、心の傷は、治そうと思えば、一瞬で治るのです。治った心は悪から心を守ります。不幸にならないようにしてくれるのです。ここで大切なことは、治そうと思って悪から離れ、悪を捨てることなのです。その時、心には悪はないのです。悪のない心は、不幸から守ってくれるのです。

この詩では心が、非常に早いスピード生滅することに気づけば、すぐ納得できることだと思います。


「傷ないと 毒の中でも 大丈夫 悪ない人に 不幸は来ない」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_27.html
http://76263383.at.webry.info/201002/article_3.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年07月07日 05:26
おはようございます。

せっかく出来ていた善行為が続かなくなったり…、これくらいなら、と思って悪いことをしてしまったり…。継続することは難しいです。
昨日、枝豆を食べていたらふとビールを飲みたくなりました。この数年来、初めての衝動だったのでびっくりしました。
更に情けないことには、一瞬「誰が見ているわけでないし」という考えが心をよぎったのです。
もちろん飲みませんでしたが、心というものが瞬間に変わる、ということを実感しました。
せっかく続けてきた善行為を継続できるように、自分との戦いですね。
常に自分の心を見張っていないといけないのだな、と思った経験でした。
とも
2012年07月07日 05:56
おはようございます
過去に悪いことを散々繰り返し(法律には触れないですよ)心に傷があります。しかし後悔は止めました。後悔は蚊に刺された後を掻きむしって悪化させる様に、心の傷も悪化させることになると思うからです。心の傷を治します。
あすか
2012年07月07日 09:30
体の傷がやがて癒えるように
心の傷も治るのですね。
大変心強いです。

布薩ということで懴悔してみました。
慈悲の瞑想をはじめた頃と同様、
となえるだけで気持ちが伴わない。
形だけだな、と感じていましたが
時間をおいてじわじわきました。

昨夜、突然、慢のかたまりだった頃が
いろいろ思い出され、だから
あんなことがあったんだと気付き、
そんな私にも親切にしてくれた
方々の優しさに気付き、涙しました。

後悔はやめます。お世話になった
皆様も幸せでありますようにと
慈悲の瞑想をします。そして、
尚いっそう、精進に励みます。
nori
2012年07月07日 10:56
呼吸や、観察に戻るときに、心が穏やかになり、心がバリアーのように包まれて、何かから守られているように感じます。貪瞋痴の炎、嵐、毒から離れることで、身を守っているのかもしれません。精進します。
カエルくん
2012年07月07日 11:33
先生、質問です。
毎日家族のために食事を作ります。
それが日々の楽しみになってしまってます。
本当は料理は嫌いなのですが、楽しまないと苦しくなってしまうので、楽しくなるように工夫しているうちに、そうなりました。
もっと淡々と作るべきなのかな、と悩みます。

洗濯や掃除、アイロンがけなどもそうです。
めんどくさいなあ、と思いつつ、ラベリングしながらやっていると楽しくなってきます。

楽しい気持ちにも執着せずに、観察を続けるべきでしょうか。
それとも楽しい気持ちを原動力にして、毎日暮らしてしまってよいものでしょうか。

俗な質問ですみません。
ご教示ください。
ささ
2012年07月07日 19:02
自分が傷ついてることを強く感じるとき、周りの人をも傷つけてしまっている様に感じます。
自分の心を躾けて躾けて、慈悲の気持ちが感じられるようになると、周りの人のためにもなれている事を、つい最近も実感したばかりです。

以前と違うのは、お釈迦さまの教えに出逢え、適切なあらゆる薬が用意されてる事のように感じます。その適切な薬を探し出し、飲んだり塗ったりするのは他でもない自分ですね。

自分の傷を治すことで、周りの人のためにもなれるよう、これからも精進していきます。

次の新月が楽しみです。反面、夜の食事を抜いた影響なども経験してみないと分かりませんね。あすかさんの経験を参考に、私も無理のない範囲でつとめたいと思います。
ワンギーサ
2012年07月07日 20:23
カエルくん、こんばんは。
今日は、慶応大学で、第二回シンポジウム「信仰と災禍―その不条理を問う」に参加して、今帰ってきたので、質問の回答が遅くなりました。

質問にこたえます。
嫌いな家事を工夫して、楽しく行うのはよいことです。暗い心を明るくするのですから、善行為です。工夫することで、智慧も開発できます。
修行で壁にぶつかった時なども、いろいろ工夫して壁を乗り越えるべきです。
善に向けられた心に生まれた喜びや楽しみを原動力にして修行を進めるのです。
しかし、あなたも書いておられるように、いつまでもそれにしがみついているのではなく、その喜びや楽しみも捨てて、前進するのです。その時はその喜や楽も簡単に捨てられるようになっているはずです。それまでは、喜や楽は活用してください。
カエルくん
2012年07月08日 06:30
先生、おはようございます。

お忙しい中、ご指導ありがとうございます。
喜や楽が自然に手放せるようになるまで、頑張ります。
こころざし
2015年11月18日 07:08
知識として知ってはいても、志が持てるかどうかは大きなハードル?のような印象を感じる事があります。本文の「治そうと思って悪から離れ、悪を捨てること」を是非実施し、そして悪のない心を持てるようになりたいです。