人のため 自分の目的 捨てるなよ 目的よく知り 専念すべき(166)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


○子供のためのダンマパダ

お父さんやお母さんに頼まれても
自分の目的を捨ててはいけない
自分の目的が自分と皆のためになると知ったなら
自分の目的に向かって前進しよう


○パーリ語原文と訳語

アッタダッタン パラッテーナ
Attadatthaṃ   paratthena,
自己の目的を  他者の目的が

バフナーピ   ナ    ハーパイェー
bahunāpi    na    hāpaye;
多くあっても なかれ   失う

アッタダッタマビンニャーヤ
Attadattham abhiññāya,
自己の目的を よく知って

サダッタパストー      スィヤー
sadatthapasuto       siyā.
自己の目的を追求する者で  あれ


○直訳
他者の目的が多くあっても
自己の目的を失うなかれ
自己の目的をよく知って
自己の目的を追求する者であれ


○一口メモ
よく言えば他人の気持ちを大切にする人、悪く言えば優柔不断の人は、他人の意見や思惑に従って自分の目的をないがしろにする傾向があります。しかし、これでよいのでしょうか。後で後悔するのではないでしょうか。このような人に限って、あとで悩むのです。

(以前、人間は結局自分のやりたいようにやるのだとこのブログで書きました。しかし、優柔不断の人はこの自覚がないから後悔し、悩むのです。この自覚があれば悩むことはありません。あきらめがつくのです。)

スマナサーラ長老は人生に目的などないとよくいわれます。人間に限らず、すべての生命はただ本能に従って生きて、苦しみの輪廻を繰り返しているだけなのだと。ですから、他人のために目的を捨てても、本来は問題ではないのです。

ですが、ブッダは「苦しみをなくす」という目的を発見されたのです。その目的は自分と他人みんなのためになるのです。なぜならば、すべての生命は苦しみをなくしたいと願っているからです。

その目的を知って、それが自分の目的になったならば、どんなことがあってもその目的を捨ててはいけません。親しい人々にその目的を捨ててくれと頼まれても捨ててはいけません。それを頼んだ人々のためにもその目的を捨ててはいけないのです。

さて、この詩で「自己の章」が終わります。次は「世界の章」です。自己と世界がすべてです。すべてを知って、苦しみをなくす方法がわかります。そして、次は「ブッダの章」になるのです。仏教の応用問題の一番目が終わります。


「人のため 自分の目的 捨てるなよ 目的よく知り 専念すべき」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200904/article_29.html
http://76263383.at.webry.info/201003/article_8.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

2012年08月15日 08:17
おはようございます。
「他者の目的が多くあっても自己の目的を失うなかれ」
この部分は、共感致します。
多くの場合結局、瞑想をやらない、離欲の教えを実行しない言い訳として、他者の目的が多くある事を理由にしているからです。
基本的に仕事、家庭問題、人助け、レジャーetcをしていて老死に至るだけというのが「人生の定番」でしょうから。

P.S.
以前コメント欄でご紹介頂いた「死を食べる―アニマルアイズ・動物の目で環境を見る」の宮崎学写真集・死-輪廻転生を本屋さんで拝見致しました。

実に良かったです。春夏秋冬に死んだシカやタヌキ等の動物の死体が時間の経過と共に細菌、虫、小動物に喰われ、体毛などが巣作りのために小鳥にも持ち去られ、腐乱、白骨化してゆく様子がカラー写真で紹介されているので、まさに不浄観の瞑想をしているみたいだと思いました。

自分の身体、物事は絶えず循環し、無常なんだなとつくづく思いました。

こうやって昔の僧侶は墓場に行って死体を見ていたんだと思います。(今でもタイでは警察病院等で見れるらしいが)

20分ぐらい見て、脳裏に映像を焼き付け、数日は欲が抑制されましたので(笑)、アビダルマ、清浄道論に載っている貪性、貪りタイプの人にはうってつけだと思います。

ご紹介本当にありがとうございました。m(_ _)m
noritarou
2012年08月15日 09:57
自分の目的、つとめとは、
>すべての生命は苦しみをなくしたいと願っているから
>苦しみをなくす 事だと理解しました。
私にとって仕事も、家庭も、人間関係も、すべてはその目的のための通過点です。
あすか
2012年08月15日 11:46
自分の「真の」目的ですね。これを
欲や怒りからの目的とはき違えると
大変なことになります。
確かに食べればおいしい、
ほめられれば嬉しい、と刺激が一瞬
あるのですが満足がありません。
ムカッとくることもあります。
欲、怒りをなくす、せめてやりすごせたら。

真の目的はときに衝動にNOといわねば
なりません。理屈で悪いとわかっていても
サティで気づいている自分がいてさえも
これがなかなか手ごわいのです。
みなさんも工夫してるのでしょうか?
慈悲と智慧
2012年08月15日 13:43
私のブログにも載せましたが、こころを清らかにするのを諦めてはいけないというスマナサーラ長老の法話があります。
お聞きになることをオススメします。

但し、心を清らかにするために、仕事、育児、勉強等をサボって良いわけではないと思います。

執着しないと怠けるは違います。


カエルくん
2012年08月15日 17:55
こんにちは。

私は、先生のおっしゃる所の「優柔不断な人」だと思います。家族に頼まれて、一度テーラワーダ仏教から離れました。書物を捨てて、協会員であることもやめました。でも仏教徒であることはやめられませんでした。
結局、こうしてブログにコメントさせていただく形で、テーラワーダ仏教に戻ってきています。
自分の目的は何か、もう間違えないようにしようと思います。
2012年08月15日 20:04
「他者の目的が多くあっても自己の目的を失うなかれ」
この部分は、共感致します。
多くの場合結局、瞑想をやらない、離欲の教えを実行しない言い訳として、他者の目的が多くある事を理由にしているからです。
基本的に仕事、家庭問題、人助け、レジャーetcをしていて老死に至るだけというのが「人生の定番」でしょうから。

P.S.
以前コメント欄でご紹介頂いた「死を食べる―アニマルアイズ・動物の目で環境を見る」の宮崎学写真集・死-輪廻転生を本屋さんで拝見致しました。

実に良かったです。春夏秋冬に死んだシカやタヌキ等の動物の死体が時間の経過と共に細菌、虫、小動物に喰われ、体毛などが巣作りのために小鳥にも持ち去られ、腐乱、白骨化してゆく様子がカラー写真で紹介されているので、まさに不浄観の瞑想をしているみたいだと思いました。

自分の身体、物事は絶えず循環し、無常なんだなとつくづく思いました。

こうやって昔の僧侶は墓場に行って死体を見ていたんだと思います。(今でもタイでは警察病院等で見れるらしいが)

20分ぐらい見て、脳裏に映像を焼き付け、数日は欲が抑制されましたので(笑)、アビダルマ、清浄道論に載っている貪性、貪りタイプの人にはうってつけだと思います。

ご紹介本当にありがとうございました。m(_ _)m
ささ
2012年08月15日 21:54
今回の内容は、これまでに何度もぶち当たってきた問題です。今は初期仏教の学びと実践のおかげで、以前の問題に対する自らの捉え方に変化が出てきて、相手を尊重しながら自分の譲れない部分を大事にする事ができるようになってきたように思います。
真の目的に向かっていつつも一足飛びにはいけないところが歯がゆくもありますが、以前の自分に比べたら大きな変化も実感しています。今はまだできていない、自分の悪いところを観察することは逃さないよう、自分のペースで実践していきひとつひとつ乗り越えられるよう歩んでいきたいと思います。
こころざし
2015年12月01日 12:40
「苦しみをなくす」という目的、とても分かり易くて是非克服するべきと思います。人生をかけてそれが叶うように努めたいです。