世の中を 泡のようだと 見るならば 死王は彼を 見ることがない(170)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


○子供のためのダンマパダ

シャボン玉が壊れても泣かないね
おもちゃもシャボン玉のようだと思えたら
おもちゃが壊れても
泣かないね


○パーリ語原文と訳語

ヤター  ブッブラカン  パッセー
Yathā   bubbuḷakaṃ   passe,
如く   泡の      見るように

ヤッター  パッセー   マリーチカン
yathā    passe     marīcikaṃ;
如く    見るように  蜃気楼の

エワン   ローカン  アウェーッカンタン
Evaṃ    lokaṃ    avekkhantaṃ,
この如く  世界を   観察する者を

マッチュラージャー  ナ   パッサティ
maccurājā       na   passati.
死王は        ない  見


○直訳
泡の如く見るように
蜃気楼の如く見るように
世界をこの如く観察する者を
死王は見(ことができ)ない


○一口メモ
世界を泡の如く見るとはどういうことでしょうか?
泡とは、シャボン玉をイメージすれば分かるように、生まれて、しばらくすると消えるはかないものです。この詩の世界とは世界の構成要素と考えたら分かりやすいでしょう。この世界のどんなものも、どんな現象も、生まれると消えていきます。どんな現象も発生すると生滅してしまいます。

世界を蜃気楼の如くみるとはどういうことでしょうか?
蜃気楼とは、ただ像が見えるだけで実体はないものですが、世界もそのようなものだと言うのです。自分が住んでいる街並みも、毎日見ていると変化に気づけないのですが、短い期間でも旅行に出て帰ってくると、街の様子が変わっているのです。旅行に出る前のあの街並みはもうないのです。あの街並みに実体はなかったのです。

仏教で一番問題になる自己も、泡のようなものであり、蜃気楼のようなものと見るとは、今自己と感じている自己は、泡のように消えて、異なる自己に変わっています。さっき感じた自己はすでになく、新たな自己になっているのです。さっき感じていた自己は蜃気楼のように実体のあるものではなかったのです。

瞑想して、自己と世界(心の対象)を繰り返し、観察すると、世界と自己が泡のようなもの、蜃気楼のようなものだと実感できるようになります。その時、自己や世界に対する欲や執着が薄まり、終にはなくなります。

ところで、死王とは欲の世界を支配する精霊です。彼は生命を欲の波動で観察し、支配するのです。ですから欲のない存在は見えないし、支配できないのです。世界や自己を、泡や蜃気楼のように見て、欲や執着のなくなった者は見えないのです。


「世の中を 泡のようだと 見るならば 死王は彼を 見ることがない」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200905/article_2.html
http://76263383.at.webry.info/201003/article_11.html

○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

あすか
2012年08月19日 11:16
シャボン玉、イメージしやすいです。
全ては変化すると覚悟していると
大切な物が壊れた時でも
親しい人の死でも、
ダメージが小さくて済みます。

心に湧き起こる欲や怒りの泡もまた
じっと見ていれば消えゆくのでしょうか。
例えば食べるなど必要な本能と欲が
混ざったものは難しいですね。
カエルくん
2012年08月19日 16:28
こんにちは。

難しいけれど好きな詩のひとつです。
すぐれたバッターが、「調子が良い時は、ボールが手元で止まって見える」と話すように、ヴィパッサナーを続けていくと物凄いスピードで変化生滅している物事が、泡のように生まれては消えていくものだということが実感できるということでしょうか。

昨日は新月でしたね。
また自己流のひとりウポーサタをしました。
まだいつもの生活+夕飯を抜いて化粧をしないだけ、という大雑把なものですが、少しずつ瞑想の時間を増やしたり、お布施をしたり、それらしく過ごせるように工夫をしたいと思います。(夕食抜き、一回目よりも辛くありませんでした)
ささ
2012年08月19日 22:12
すべてが泡のようなものだと、すべて変わっていくのだと、何かに心が引っかかってしまったとき、このこと(無常)を思い出すと執着が薄くなり楽になることがあります。

昨日は初めて休日のウポーサタでした。意識して瞑想や学ぶ時間を増やすことができ、とても充実した一日となりました。せっかくなので、これからは新月と満月の日の後のはじめの休日に、集中してひとりウポーサタとすることにしようかと考えています。
昼食をうっかり少し早めに取り終えてしまいましたが、今日は夕飯をとりませんと、心に宣言しているからか、全くつらくありませんでした。ウポーサタと決めていない日は考えられないことなのです。やはり心が支配しているんだな~とも、強く実感できた一日となりました。
学びのひとつとして、『アニマルアイズ~死を食べる』も読ませて頂きました。とても貴重な学びとなりました。
noritarouさん、ありがとうございました。
noritarou
2012年08月20日 09:53
>さささん
貴重なご感想を頂き、ありがとうございます。

>蒼氓さん
以前に蒼氓さんからも、大変丁寧なご感想を頂きました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。

皆様と共に学べる機会を与えられたことに、深く感謝致します。有難いです。精進します。
こころざし
2015年12月02日 12:47
日常で、欲が有る人と・無い人で、その存在感が随分違うと思った事があります。前者は気持ちの良くない意味でパワーを感じます。自我という認識が無いほど、そのような状態に陥る事は少ないと思います。
世の中の事をしっかり・正しく見れるように、冥想等を精進して参りたいです。