悪業を 善い行いで 止めた人 満月のよう 世を照らす(173)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


○子供のためのダンマパダ

アングリマーラという殺人鬼
ブッダに会って改心し
苦しむ妊婦を助けたり
皆の役に立つ人になりました


○パーリ語原文と訳語

ヤッサ  パーパン  カタン  カンマン
Yassa   pāpaṃ   kataṃ   kammaṃ,
彼の   悪い    為した  行為が

クサレーナ   ピティーヤティ
kusalena    pithīyati;
善行為で    覆われる

ソー  イマン ローカン   パバーセーティ
So   imaṃ   lokaṃ    pabhāseti,
彼は  この  世界を    輝かす

アッバー  ムットーワ    チャンディマー
abbhā    mutto'va     candimā.
雲から   離れたように   月


○直訳
彼の為した悪い行為が
善業で覆われる(そうすれば)
彼はこの世を輝かす
雲から離れた月のように


○一口メモ
この詩は、昨日の詩と後半の2行が同じです。
「彼はこの世を輝かす 雲から離れた月のように」
昨日のさささんのコメントで思い出したのですが、この詩の「雲」は煩悩と理解できますね。煩悩から離れた人は輝いているのでしょうね。

昨日は、放逸であった人が不放逸に変わったという詩でしたが、今日は悪業を為した人がその悪業を善業で覆したと言う詩です。

この詩はアングリマーラ尊者にちなむものですが、その因縁物語をスマナサーラ長老の説法から引用します。
http://www.j-theravada.net/howa/howa88.html
  アングリマーラ尊者はKosala王の相談役だったGagga大臣の息子として生まれました。 生まれてまもなく父親が占ってみたところ、この子は大変な殺戮者となって国を荒らすであろうということがわかりました。 王様にこのことを報告したところ、王様は、「彼はひとりで暴動を起こすのか、それともグループで起こすのか」と尋ねました。 父親は、「完全に単独で行動する人間です」と答えました。 王様は、常々自分へのアドバイスをくれる師に免じて、また、これほどの大国で一人くらいはなんということもないと考え、「生かしておきなさい」と言ったのです。 父は期待を込めて息子に『アヒンサカ』(生命に優しいの意味)と名づけ、学問に出しました。 アヒンサカはとても行儀が良くて頭も良く、学校の先生には我が子のように可愛がられました。 しかしそのため、同級生たちの嫉妬を買い、嫉妬した生徒たちは嘘の噂を流して、先生の気持ちをすっかり変えてしまったのです。
 怒りに狂った先生は、自分の手を汚さずに彼を殺そうと企んで、アヒンサカに言いました。 「私は、神の供養のため、1000人の命を神に差し上げると約束した。 私の代わりにそれをやってくれ。 君に教育を与えた礼として」。 目上の人の話を真面目に聞くアヒンサカも、この話は断ったのですが、やらなければ教育が身につかないと脅され、納得させられたのです。 それから彼は山にこもり、人殺しを始めたのです。 そして殺した人の指を一本ずつ集め、輪に通して首にかけました。 アングリマーラ(指でつくった首飾りの意味)というあだ名はここから出たものです。 彼はコーサラ王国を脅かす殺戮者となりました。 アングリマーラを取り押さえることは、王様の軍隊にさえできませんでした。 後に、999本の指の首飾りを持っていた彼は、仏陀に出会って出家し、悟りを開きます。
さらに詳しくは、中部経典の第86「アングリマーラ経」を参照してください。

また、この173番の詩は私にとっては記念すべて詩なのでお知らせしておきます。
実は「困った時はダンマパダ」を2008年6月21日に始めました。その時の詩がこの173番の詩です。ですからこの詩から4回目の解説になります。(ただし、25章と26章は除きます。)

話しは変わりますが、瞑想について一言。私は毎日きょうの瞑想はどんなものになるか楽しみして瞑想します。瞑想は一回一回違うのです。同じ瞑想はありません。自分で上手く行ったと思うときも、上手く行かないと思うときもあります。しかし、自分で上手く行ったときが必ずしも良いわけでなく、上手く行かなかったと思う時が善い場合があるのです。それはその時、分からなくても後でわかります。ですから一回一回の瞑想を大切に、楽しみながら行うとよいと思います。


「悪業を 善い行いで 止めた人 満月のよう 世を照らす」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200806/article_1.html
http://76263383.at.webry.info/200905/article_5.html
http://76263383.at.webry.info/201003/article_14.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

2012年08月22日 07:51
おはようございます。この二つの偈には実に励まされます。
ですのでどんな失敗をしてもそこで諦めず、怒らず、落ち込まず、感情(煩悩)に振り回わされずに、前向きに明るく、現実の事実に戻り「これからどうするか?」と考え、素早く
次の対処行動が取れるよう心を育てたいと思いました(^_^;)。
noritarou
2012年08月22日 10:24
4回にわたる解説、ワンギーサ先生のたゆまぬ善行為に感謝申し上げます。
ありがとうございます。

>満月のように
私は、月の光を見る時に、ジャータカ物語の中で、ウサギが慈悲の気持ちで自らの身体を焼いて差し出したという、善行為の光そのものを感じます。
生きたいという衝動の中で苦しみ、悩み生きているときに、また、その苦しみさえ自覚せず快楽を求めて生きているときに、ウサギのように身体を差し出すことが出来るでしょうか。怒りではなく、慈悲の気持ちで、我が身を、すべてを差し出せるでしょうか。とても厳しい譬えです。
そのように、ブッダの徳が月の光に現れているように、善行為の光により、世界は満たされていると感じます。
しかし、無明によりその光を遮っているのは私にほかなりません。
それでも、私たちも慈悲、善行為により、世界を輝かせることができます。仏教は、人類に説かれた教えだからです。
皆様とともに学べる今生に感謝します。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
あすか
2012年08月22日 11:14
ワンギーサ先生でさえ瞑想がうまくいかない
こともあるのですね。少し安心(?!)^^:
うまくいかないことも含め、全ての事から
学べると思うと毎日が楽しみですね。
わからないことは「保留」にしておく。
「保留」があまり得意でないのですが
どうどうめぐりや妄想で無駄に時間を
過ごさないよう気をつけます。
学び理解することや考えの整理と、
勘違いしないよう、気をつけます。

布薩の度、礼拝の度、懺悔しながら、
どうせ全く罪を犯さないで生きるなど
できないのに、とすっきりしませんでした。
スマナサーラ長老の下記の言葉で
整理できてきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
必要なのは「いま犯した過ちと『同じ』
過ちを二度と犯さない」という決意です。
「二度と過ちを犯さない」ではありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

カエルくん、
こちらこそ、いつもいろいろ気づかせて
いただいてありがとうございます。
皆さん、
切磋琢磨しあいながら
共に歩んで行きましょう。^^
慈悲と智慧
2012年08月22日 15:30
悪い行いを踏みとどまり、良い行いに切り替えることが出来る際に、私の場合、長老の声が頭に聞こえてくることがあります。
それは、以前に実際あった法話会に参加した際の声や長老の表情等、後は、音声法話を聞いた際の声です。

何を言いたいのかといいますと目で法話を読んだ場合より、耳で聞いた方が、自分の場合断然定着するということです。
さらに言えば、耳で聞いて目で見る、DVDや実際に参加した方が良いです。

参考までに。
カエルくん
2012年08月22日 19:00
こんばんは。

アングリマーラ尊者のエピソードはいつ読んでも迫力がありますね。
これまで築いてしまった悪業も、己の精進しだいで乗り越えられる、という教えはいつ聞いても心強いです。

瞑想を楽しむ境地には程遠い私ですが…。瞑想が一回一回違うもの、という感じは分かるようになりました。
一歩ずつ精進したいと思います。
noritarou
2012年08月22日 20:32
慈悲と智慧さんの仰る通りだと思います。
耳から聞く経験は、読む経験とはまた違った豊かさをもたらせてくれます。私は、スマナサーラ長老の法話の肉声を、録音させて頂いて何十回となく聞いています。
ゴータミー精舎日記にある、スマナサーラ長老のダンマキャストは本当に素晴らしいです。二ヶ月かけて、格調高い全ての法話を拝聴しました。
テーラワーダ仏教ほどの、高い質と膨大な量の教えを公開している所を、他に知りません。有難いです。
ささ
2012年08月22日 21:54
4巡目の記念すべき偈だったのですね。おめでとうございます。そしてありがとうございます。
何度も直接スマナサーラ長老の講演や講座などに通い学んでおりましたが、怠け者の私が今、こうして瞑想実践を始めることができたのは、ワンギーサ先生に背中を押されたことにほかなりません。
そのきっかけは、このブログを読むようになり、先生に直接相談をさせて頂いたことです。
質問をしたことが、今につながっています。お釈迦様の教えの通りだと実感します。ありがとうございます。

4巡目ともなると解説にもふくらみが増しますね。色々な角度から学べてとても勉強になります。
昨日の偈と今日の偈は、ちょっと違う表現のしかたで、理解しやすいよう、お釈迦さまが同じことを教えてくれているように感じました。放逸のとき=悪業を為す、不放逸のとき=善業を為すという意味も含まれているのかなと。

瞑想についてのお話。とても参考になります。自分で上手くいかなかったと感じた逆の可能性があるというのは、また新たな発見です。楽しみながら行ってみます。

皆さまと時を同じくして学べることのご縁を感じます。
皆さまが、生きとし生けるものが幸せでありますように。
青砂木
2014年07月06日 10:25
こんにちは。
改めてダンマパダを読み直し始めて、今日は173日目になりました。この偈を初めて読んだときは、『彼の 為した 悪行為が 善行為で 覆われる』だから、直ちに己の悪を止め心から反省して頑張ろう!というように己の内に限定した希望のように受け取っていました。
 でも、今は違う受け取り方をしています。それは、無明の闇に覆われて見境も無く我に溺れる暗いものにも、光を照らして我に気付かせ、その行為を止められる方が居らした。それが、正しく悟られた覚者であったという受け取り方です。このことは、自分にとって新しい発見でした。止められる悪行為は、己の悪行為だけでなく、親しいもの、親しくないもの、すべてのものの悪行為を止められるのだというお手本は、これ以上ない大きな希望だと思いました。

生きとし生けるものは幸せでありますように。
こころざし
2015年12月03日 08:48
本文の「一回一回の瞑想を大切に、楽しみながら行うとよい」を拝見し、自分が座る冥想(1日1時間を予定・状況で30分×2になる事もあり)の事を振り返りました。楽しみでやるというより志を思いながらノルマや日課のようにやり始める印象が強かったです。
楽しんでやる事、今日より実践致します。