この世界 見えない人の 集まりだ 自分が死ぬとは 思っていない(174)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


○子供のためのダンマパダ

世間の人々は忙しそうに
走り回っていますが
自分は必ず死ぬものだとは
思っていないのです


○パーリ語原文と訳語

アンダブートー  アヤン  ローコー
Andhabhūto    ayaṃ   loko,
盲目の存在    この   世界

タヌケッタ    ウィパッサティ
tanuk'ettha    vipassati;
少数がここで   よく見る

サクノー  ジャーラムットー  ワ
Sakuṇo   jālamutto      va,
鳥が    網から自由になる  ように

アッポー  サッガーヤ  ガッチャティ
appo     saggāya   gacchati.
少数が   空に     行く


○直訳
この世界は盲目の存在だ
少数がここでよく見る
鳥が網から自由になるように
少数が空に行く


○意訳
この世界の人々は盲目のようだ(真実を知らない)
少数の人々のみが真実をよく見て、
(無知の束縛から離れ解脱する)
少数の鳥が網から抜け出して
空に飛んでいくように


○一口メモ
今回は、今までの解説の趣向を少し変えて、因縁物語に基づいて説明しようと思います。
と言いますのは、今までは「この世界は盲目の存在だ」という時の盲目をすべての事柄に対して盲目だという意味に解していました。しかし、因縁物語では死に対して盲目(知らない)という意味に解しているように思います。

ブッダはアーラヴィーの町で次のように説法されました。「『命は不確かであり、死は確かである。必ず私は死に、私の命は死をもって終わる。命は定まらないが、死は定まっている。』と、このように死念を修習しなさい。なぜならば、死念を修習せずに、最期を迎える者は恐れ、叫びながら死にますが、修習するものは恐れることないからです。」
それを聞いて人々は自分の仕事に戻りましたが、16歳の機織りの娘だけが死念の修習をその後3年実践しました。
3年後、ブッダは再びアーラヴィーの町で説法し、ブッダはその娘に四つの質問をしました。
1.「どこから来ましたか?」娘は「知りません。」と答えました。
2.「どこへ行きますか?」娘は「知りません。」と答えました。
3.「知りませんか?」娘は「知っています。」と答えました。
4.「知っていますか?」娘は「知りません。」と答えました。
ブッダはこのように答えた娘を称賛し、今回の詩を述べたということです。
この説法の終わりに娘は預流果を得ましたが、間もなく彼女は父親の不注意から、機織り機に胸を打ち亡くなります。父親は悲しみブッダのもとで出家して、やがて阿羅漢果を得たということです。
さて、このブッダの質問の意味は何だったのでしょうか?
1.どの前世から生まれてきたのか?
2.死後、どこへ生まれ変わるのか?
3.人はいつか死ぬということを知っているか?
4.自分の死ぬ時期を知っているか?
という意味でした。娘の答えは智慧のある者の答えだったのです。


「この世界 見えない人の 集まりだ 自分が死ぬとは 思っていない」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200806/article_2.html
http://76263383.at.webry.info/200905/article_6.html
http://76263383.at.webry.info/201003/article_15.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

noritarou
2012年08月23日 12:37
死についての問答でしたが、その答えを見る前に私はこう解釈しました。この解釈は間違っている、それは妄想だと、ご指摘を頂くかもしれませんが、誤解を恐れず書いてみます。

>「知りませんか?」娘は「知っています。」
>死ぬということは確かにわかっている
と、自分を含めた一切の現象が生滅変化していて無常だと理解し、無知から脱した少女は、暗に、不死(涅槃)を知っている、と答えたのだと考えました。
そうしますと、
>「知っていますか?」娘は「知りません。」
>「では、(涅槃を)わかっているのだね」
>「いいえ、お釈迦さま、ぜんぜんわかっていません」
とは、(涅槃は)知的に知り得るものではなく、言葉で言えるものではないから、という風な解釈も出来るのではないかと考えました。
不適切でしたら、削除してください。

ヴィパッサナー瞑想について、観察を洞察と言うと、さらに深くなる気がしますね。
素晴らしい訳だと思います。
あすか
2012年08月23日 18:54
お葬式に参加しました。
ヒトが死ぬ確率は100%
それは明日かもしれません。
常に慈悲の心とサティを忘れず
精進しようと再確認しました。
カエルくん
2012年08月23日 20:29
こんばんは。

「今日は一日忙しかった」と思っていたので、子供のためのダンパダを読んで、ガーンとなりました。
今日の仕事と明日の仕事の予定でいっぱいの頭を、パチンと叩かれたような気がしました。
生活の糧を得るための仕事は副業であって、瞑想が本業ですよね。今日もこれからが本番と心得て、精進いたします。
こうしてブログを読むことで、一日の中で我に返る時間が持てることを感謝いたします。
ささ
2012年08月24日 01:05
無知の網から抜け出る事がいつか叶うよう、善友であるお釈迦さまの教え、スマナサーラ長老の生の声に親しんでいきたいと思います。
freiheight
2012年08月25日 20:00
 lokoは世界ではなく、生命の意味ではないでしょうか?

 例えば、http://www.j-theravada.net/explain/syamonka-1.htmlのスマナサーラ大長老の説法では、loka-vidû(世間解)の世間(loka)は生命の意味であるとされています。

 http://www.j-theravada.net/howa/howa89.htmlのダンマパダ174のスマナサーラ大長老の訳においては、「生命は盲目である」と訳されています。

 vipassatiはヴィパッサナーをするということですから、「見る」ではなく「観る」にしておく必要があると思います。例えば、音が耳に入った場合に「音、音、音」と実況中継する場合も「観る」になるわけです。
ワンギーサ
2012年08月25日 21:25
freiheightさん、167番の「一口メモ」を読んだ上でコメントして下さい。
こころざし
2015年12月03日 08:53
何時か死ぬ事は分かっていながら、平均寿命を根拠にまだ死なないはずとの妄想を糧に毎日を死なない前提で生きている日常を感じます。少し前になりますが自転車通勤途中で車と接触する事故に逢い、無傷でしたが・何時死ぬかは分からないと実感する機会になりました。
何時死んでもおかしくないと理解し、そして日々の今を大切にして参りたいです。