ブッダには 渇愛はない その境地 無辺の境地に 誰が行けるか(180)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。

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○子供のためのダンマパダ

好き嫌いなく食べる子は
丈夫な身体になるように
友だちを好き嫌いしない子は
優しく、賢い子どもになりますと
お釈迦さまは仰いました。


○パーリ語原文と訳語

ヤッサ  ジャーリニー  ウィサッティカー
Yassa   jālinī      visattikā,
彼には  網のような   執着する

タンハー  ナッティ  クヒンチ  ネータウェー
taṇhā    natthi    kuhiñci   netave;
渇愛は   ない    どこかに   導く

タン  ブッダマナンタゴーチャラン
Taṃ   buddham anantagocaraṃ,
その  仏陀を   無辺の境地の

アパダン  ケーナ   パデーナ  ネッサタ
apadaṃ   kena    padena    nessatha.
足跡のない いかなる  足で    たどれるだろうか


○直訳
彼には網のような執着し
どこかに導く渇愛はない
無辺の境地の、足跡のないそのブッダに
いかなる足でたどれるだろうか


○一口メモ
今回の詩は、昨日の詩と後半2行は同じ句です。前半2行は違います。昨日は「ブッダの勝利は失われない」でした。今回は「彼(ブッダ)には網のような執着し、どこかに導く渇愛はない」です。要点は渇愛がないということです。

「渇愛」と言えば「四聖諦」です。四聖諦について、田辺聖恵師著「三宝聖典」(p17~18)から引用させて頂きます。

時に世尊、五ビクに説きたまえり。
「苦諦とは、生老病死の四苦にして、うらみ憎むに行きあう苦、愛する者にわかるる苦、願い求めて得ざる苦、つづめて物も心も苦。
集諦はのちの生存もたらせる、喜びむさぼる愛(渇愛)にして、欲の愛(渇愛)、存在の愛(渇愛)、虚無の愛(渇愛)
滅諦ははげしき愛(渇愛)を捨てさり、執着はなれ苦を滅し、解脱をなせるニバーナなり。
道諦はニバーナへ至る八聖道、正見、正思、正語、正行、正命、正精進、正念、正定。」
「この四聖諦はいまだ説かれたことはなく、われみずから悟りし法なるが、この正法によりよりて、われ眼を生じ、智を生じ、清き光を生じたり。
この四聖諦は知るべきものとしてこれを悟り、この集諦は断つべきものとしてこれを断ち、この滅諦は悟るべきものとしてこれを悟り、この道諦は修むべきものとしてこれを修めたり。このわれみずから悟りたる正法により、眼を生じ、智を生じ、清き光じたり。」

以上引用終わり。途中の愛の語の後に(渇愛)をワンギーサが挿入いたしました。四聖諦について正確に美しい言葉で日本語に訳されいますのでここに引用させて頂きました。

この四聖諦こそはブッダの智慧のエキスで、無明とは四聖諦を知らないことであり、これを悟る者が無明を開き、無辺の境地に行くのです。

ブッダには 渇愛はない その境地 無辺の境地に 誰が行けるか(180)


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200806/article_8.html
http://76263383.at.webry.info/200905/article_12.html
http://76263383.at.webry.info/201003/article_21.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

2012年08月29日 07:41
おはようございます。
「彼には網のような執着しどこかに導く渇愛はない」
というこの詩偈で仏教の持つ本質が明快に語られていると思いました。

我々が目指す方向性が無執着で、世の中全て自分も含めて無常だから、執着していると酷い目に会うぞというアドバイスだと感じます。

こういう偈や教えに接しているならば、他の宗教・政治・マスコミ含め世の中で騙されることはないと思いますが、

実際は騙されっぱなしなので(笑)、いかに理性がないかの証だと思われます。
noritarou
2012年08月29日 09:54
私には、渇愛がない状態を求めて「法」を求めていたはずが、世間がお金や異性や権力を求める「欲」を求めているのと同じになっているかもしれない、という思いがあります。
その場合、どちらも同じことです。真理に辿り着くことは出来ません。
清らかな道とは何なのか?心が落ちついて、慈しみのある道を選んでいきたいと思います。
あすか
2012年08月29日 11:13
執着を手放す難しさと言ったら。
手放しても、手放しても、
また沸き起こってくる。
このエネルギーもったいないです。
何かいい方向にいかせたら。

清らかな心のベースには
清らかな心が現れるのでしょうか。
欲や怒り、執着が減り
慈悲と智慧が増えますように。
カエルくん
2012年08月29日 18:54
こんばんは。

執着を手放し、壊れた銅鑼のような人になりたいのですが…。
なかなか難しいですね。
身体への執着、仕事への執着、人への執着、物への執着…きりがないです。
たくさんのものを握りしめながら、両手の自由がきかない、と嘆いている自分を、愚かだなあと思います。
今日も一つずつ、執着を捨てる努力を続けます。
こころざし
2015年12月05日 14:49
四聖諦を知らない無明の状態ですと、輪廻をくり返す流れにしかならない印象を感じます。
その教えとご縁を持てる人生を得られている幸いを至福に思います。そして、心で理解し・悟りを得られるように精進したいです。