瞑想の 静寂楽しむ 賢者たち あの神々も 彼らを敬う(181)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。

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9月23日(日)ゴータミー精舎 バザーのご案内
来る9月23日(日)、東京・幡ヶ谷のゴータミー精舎にて、有志の方が東日本復興応援バザーを開催します。詳細はこちらをご覧下さい。http://www.geocities.jp/msrwp662/
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○子供のためのダンマパダ

わがままでない
落ち着いた子は
みんなが好きです
神々も好きです


○パーリ語原文と訳語

イェー  ジャーナパスター  ディーラー
Ye     jhānapasutā     dhīrā,
彼ら   禅定に熱心な    賢者らは

ネッカンムーパサメー  ラター
nekkhammūpasame   ratā;
離欲による寂静を    喜ぶ

デーワーピ  テーサン  ピハヤンティ
Devāpi     tesaṃ   pihayanti,
神々も    彼らを   羨む

サンブッダーナン  サティーマタン
sambuddhānaṃ   satīmataṃ.
正覚者である    気づきある者を


○直訳
彼ら禅定に熱心な賢者らは
離欲による静寂を喜ぶ
神々も正覚者である気づきある者
彼らを羨む


○一口メモ
五蓋(1.貪欲、2.怒り、3.昏沈・睡眠、4.掉挙・後悔、5.疑)がなくなると禅定に入ると言われています。逆に禅定に入った人には五蓋がないのです。これらの人が体験する喜びは、世間の人々の欲が満たされ時の喜びとは質の異なるものなのです。
神々の喜びも欲が満たされた時の喜びですが、梵天の喜びは欲を離れた喜びです。
さらに丁寧に読めば「離欲による静寂を喜ぶ」なっています。通常の喜びは、少し興奮しているような所がありますが、この場合は静寂を喜ぶのです。
ですから、神々も羨むと言う表現になっているのでしょう。

ここで「羨む」と書いてありますが、「嫉妬」の意味ではありません。スナナサーラ長老の説法では「神々にも好かれる」と訳されています。
http://www.j-theravada.net/howa/howa96.html
「子どものためのダンマパダ」ではそのような訳しかたに従って書いてみました。

「敬う」という意味にもとれます。この詩の要約短歌では、「敬う」にしました。

瞑想の 静寂楽しむ 賢者たち あの神々も 彼らを敬う(181)


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200806/article_9.html
http://76263383.at.webry.info/200905/article_13.html
http://76263383.at.webry.info/201003/article_22.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

noritarou
2012年08月30日 10:25
>離欲による寂静を喜ぶ…
事が出来るようになりたいです。それは、意識的にそうなれるものではなく、思考で辿り着けるものではないでしょう。
肉体も感覚も思いも意思も、今現在の認識も無常であり、何一つ執着出来ないと言われます。
でも、認識出来ないはずの私を認識している、認識している私「意識」とは何でしょうか。命があるがゆえに「私の思考」を生みだしているものは何でしょうか。妄想からも自我からも離れたところがあるとしたら、つまり行為している自分はいないと気付いた時、そこでも気付いているのは何でしょうか、その何かとは自分でしょうか?自分とは本当は何でしょうか。貪瞋痴を離れるとは、正見・信・喜・楽・離欲・離貪のゆえに落ち着いていて、怒れない、貪れない、とは、どういう状態でしょうか。そう思う時心は静かです。
これらを観念ではなく、体験したいです。
あすか
2012年08月30日 13:28
禅定はまだまだとは思いますが、
欲や怒りによる喜びと
穏やかな心との違いくらいは
わかるようになってきました。

前者は強く瞬間的で麻薬のように
次々更なる欲が湧き常に飢餓状態。
後者は慈悲や智慧などからの
穏やかで心地良い状態。

五蓋をなくすのは難しくとも
減らしていくことなら
出来るかもしれません。
今日も精進いたします。

・・・・・・・・・・・
たしかに「羨む」にはネガティブな
イメージが。言葉は微妙ですね。

こころざし
2015年12月06日 13:11
冥想修行をしっかりと実践している方は心が穏やかで、そして静かな喜びに満ちているように思います。
そのような状態になれるように精進したいです。