自己愛に 気付いたならば 自己守れ 三つの時期の 一つだけでも(157)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


アッターナンチェー  ピヤン   ジャンニャー
Attānañce       piyaṃ    jaññā,
自分を もし     愛しい   知るならば

ラッケッヤ  ナン   スラッキタン
rakkheyya   naṃ   surakkhitaṃ;
守るべき   その   よく守られたものを

ティンナン  アンニャタラン  ヤマン
Tiṇṇaṃ    aññataraṃ     yāmaṃ,
三つの    一つのもの    夜分の

パティジャッゲッヤ  パンディトー
paṭijaggeyya      paṇḍito.
目覚めているべき   賢者は


○直訳
もし自分を愛しい(と)知るならば
そのよく守られたもの(自分)を守るべき
夜分の三つの一つ(でも)
賢者は目覚めているべき

○意訳
もし自分を大切に思うならば
自分自身を守るべきです
人生の三つの時期、青年期、壮年期、老年期の
どれか一つだけでも目覚めているべきです


○一口メモ
今日から「自己の章」が始まります。自己とは仏教の重要な研究対象なのです。
パーリ仏典相応部に赤馬経という経に、「世界の終わりを極めなければ、苦から解放されない」と書いてありますが、これの意味する所は、「世界を知り尽くさなければ、苦から解放されないということです。しかし、ブッダは歩行によっては世界を極められないと言われます。そして次のように結論を述べておられます、
「友よ、私は、想あり、意あり、このわずか一尋(ひとひろ)の身体における、世界と世界の生起と世界の滅尽と世界の滅尽いたる行道とを説くのみです。」
すなわち「自己を知ることで、世界を知る」と述べておられるのです。

というわけで、自己を知ることで、苦からの解放がありますから、自己を知ることは非常な大切なことであります。「愚か者の章」の63番でも愚者を自覚しているか否かで、すなわち、自分を知っているか否かで、賢者か愚者が分かれるということが述べられていました。

さて、今回の詩の始めの行「もし自分を愛しい(と)知るならば」とありますが、これは大切なことです。素直な人ならば、自分は愛しい、自分は大切だということに同意するでしょうが、このように思えない人もいます。中には自己が一番嫌いという人もいます。そのよう人は心が病んでいるのです。ですからこのような人は心の治療が必要です。

自分が愛しい、自分が大切であるという自覚は、行動の出発点になります。この自覚があるならば、それに相応しい行動をする必要があるのです。つまり、自己愛の自覚のある人は自分を不幸にする行動をしてはいけません。

自分を不幸にしない生き方が「自分自身を守る」ということです。自分自身を守るとは具体的にはどのようなことでしょうか?
基本的には一つ「心を守る」ということですが、その方法は幾つかあります。

1.五戒を守ること。
2.身、語、意において、欲により、怒りにより、愚かな行為をしないように注意すること。
3.眼、耳、鼻、舌、身、意において、欲の、怒りの、愚かな反応をしないように注意すること。
4.慈悲喜捨の心で行為するように努力すること。

直訳の「夜分の三つの一つ(でも)」の意味は夜の始め、夜の中ほど、夜の終わりと言うことですが、この意味は人生の始め、中ほど、終わりということの例えです。そのことはこの因縁物語でわかります。

ですから、この詩のこの意味は「人生の三つの時期、青年期、壮年期、老年期のどれか一つだけでも目覚めているべきです」ということになります。青年期、壮年期に怠けていた人は老年期に、上に述べたように「自分自身を守るべきです」ということになります。

すなわち、自分が大切だと気がついたら、いつの時期でもよいから、自分自身を守ることを始めなさいということです。


自己愛に 気付いたならば 自己守れ 三つの時期の 一つだけでも


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200904/article_20.html
http://76263383.at.webry.info/201002/article_27.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

あすか
2012年08月06日 10:28
今日の偈は大変励みになります。
もっと早く仏道に気がついていたら、
とめげそうな時、この偈を見ます。
心を守る方法、ありがとうございます。
4つでコンパクトなので、いつでも
すぐ見られるよう携帯します。
noritarou
2012年08月06日 10:30
>そのよく守られたもの(自分)を 守る
よく守られたものとは、一切は形成されたものであり、無常と苦であり、それを観察する私もいない、と観察する自己のことだと思います。
夜とは、暗い、明かりがない、無明のことにも思えました。人生は闇の中で始まり、闇で終わってしまう、そして渇愛を求めて輪廻を繰り返してしまうのだと。
夜に明かりを求め、目覚め、そうした静けさより生じる寂滅、甘露、福音、恩寵といったものと共に在るように戒めた詩だと思いました。
カエルくん
2012年08月06日 20:54
こんばんは。

直訳の「夜分の三つ」の意味がやっと分かりました。
(ずっと分からずに、?と思っていました)
もっと早くに仏道に出会っていたら、とは思いますが、今からでも頑張ります。
SRKWブッダ
2014年09月07日 11:03
夜の三つの区分の一つだけでも賢者は目覚めているべき:

これは、基本的に人は夜に覚るということを言っている。私(=SRKWブッダ)や細君(涼風尊者)は夜の第一区分に解脱を生じた。釈尊は、第三区分において解脱を果たしている。夜は基本的に独り居の時間帯であり、一種のまどろみの中に人は自らの修行を完成させるのである。

なお、このことは、人が行為の結果として(昼間に)覚るのではないことをも示している。あるいはまた、人々(衆生)の意識が高ぶっている昼間に覚ることは極めて難しいことを示唆している。なお、もちろん、寝ている間(大二区分)において覚ることは無理であるから、実質的には第一区分か第三区分における修行──観(=止観)がそれにあたるのであるが──を疎かにするなということである。

***
こころざし
2015年11月28日 09:20
本文の「心を守る」4つの方法、とても分かり易いです。
どれも難しい文章はないと思いますが、それを心の域で分るのはかなりの修行が必要になるように感じます。
志を持って日々実践して参りたいです。