第一に 自分が実践 二番目に 他人を指導 これが原則(158)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


アッターナメーワ  パタマン
Attānameva     paṭhamaṃ,
自己を こそ     第一に

パティルーペー   ニウェーサイェー
patirūpe       nivesaye;
ふさわしく     確立するように

アタンニャマヌサーセッヤ
Athaññamanusāseyya,
次に 他人を 訓戒するように

ナ   キリッセッヤ  パンディトー
na   kilisseyya    paṇḍito.
ない  汚れない    賢者は


○直訳
第一に自己こそ
ふさわしく確立するように
次に他人を訓戒するように
(そうすれば)賢者は汚れない


○一口メモ
この詩もブッダの言葉ですから、基本的には悟りを目指す修行者を指導する立場の比丘に対して述べられているものだと思います。ですから、次のような意味になると思います。

先ず、瞑想指導者は自分が瞑想して悟ること
次に、他の修行者を指導すること
そうすれば、指導者は悩む苦しむことがない

悟りを目指すことではなくとも、道徳的な指導をする人々には次のような意味になります。

先ず、道徳指導者は自分の人格を完成して
他の人々の道徳の指導を行うこと
そうすれば、指導者は悩む苦しむことがない

しかし、この詩はもっと広くいろいろな教育の場における指導者のあり方に指針を与えるものです。ここで注意することがあります。たとえで話した方が、分かりやすいと思います。数学を教える人は、数学についてよく理解すべきであるということは当然ですが、数学を教える人も「第一に自己こそ、ふさわしく確立するように」、すなわち人格を向上させるべきだと教えているのだと私は思います。

現状は、そうではないので、教育の現場で重大ないろいろな問題が起きているのです。人格的に未熟な指導者(先生)があまりに多いといのが現状ではないでしょうか。

最後に一つ、テーラワーダ仏教と大乗仏教の違いの一つとして問題になっていることがあります。テーラワーダ仏教では自分が悟ってから、他の人を指導するという立場ですが、大乗仏教は自分が悟る前に、他の人を救うという立場なのです。大乗仏教ではこれを自利より他利を優先させるとしていますが、テーラワーダ仏教ではそれは不可能だと考えています。この違いに対するブッダの答えはこの詩であると思いますが、いかがでしょうか。
ブッダは論争を避けるように仰っていますから、これは論争ではなく問題提起です。


第一に 自分が実践 二番目に 他人を指導 これが原則


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200904/article_21.html
http://76263383.at.webry.info/201002/article_28.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年08月07日 05:56
おはようございます。

一生懸命努力をしていると、仏教に興味を持ってくれる友人もいます。言葉で勧めるより、実践が大事なのだなあと思います。
2012年08月07日 07:32
おはようございます。この偈はまさにその通りで、僕がダンマパダの中でも実に共感するものです。

初期仏教を人に奨めるにしても、まず自分がチャンとしてないと人に対して説得力がないでしょうからね。
あすか
2012年08月07日 10:03
難しい問題ですが勉強のため
今の自分なりに考えてみました。

自分もまだ完璧ではないけれど
共に精進しましょうというのなら
それもありかなとも感じます。
僧侶が全員悟られた方なら理想です。
しかしブッダの直接指導もない今、
人数が間に合わないのであれば
「一歩、修行の先を行く方が
後から歩む人の手助け」というのも、
「悟った人がいないから指導なし」
よりは良いかなとも思えます。

以前、誤った理解の為、上座部仏教に
批判的だった頃もありました。
逆に、アンチ大乗の時期もありました。
けれど、どちらも邪見でした。
まだまだ知らない事だらけで
間違った理解も多いかもしれません。
宗派など形にとらわれず、
善いことは取り入れ、
違うな、となれば潔く入れ替え、
常に柔軟でありたいと努力しています。
noritarou
2012年08月07日 13:26
政治や教育や会社など、社会のシステムが、テーラワーダのように、悟った人しか教師になれないシステムのようだとよいのに、と思います。その線引きは難しいかもしれませんが。
戒律に関しても、自分が守れていないものは他人に言ってはならないと思っています。
私の中で、こんなにも素晴らしいものを共感してほしいという気持ちと、言っても理解されない、無駄だという気持ちと、両方あります。
教師と生徒の関係は、教えたい教師と、教わりたい生徒がいて初めて成り立ちます。自然と人間の関係も同じだと思います。
SRKWブッダ
2014年09月07日 11:16
自分自身は覚っていないのに他人を教導しようとする者は、盲が盲の手を引くようなものであり、自分を信じてくれている相手を悲しませる。そして、その悪行によって地獄に堕ちることになる。

その一方で、未だ覚っていない身でありながら、他の人々(衆生)を(図らずも)覚りに近づける人は、却って自分自身が覚りに近づくことになる。彼を菩薩と呼ぶ。

そもそも、もろもろの如来は衆生を教導しようなとどは考えない。もしそのようなことを考える者があるならば、その者は実は地獄への道をまっしぐらに進んでいるのである。

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こころざし
2015年11月28日 09:55
自分がしっかりと修行して悟りに至る大切さを感じます。そこをベースにした上で、ご縁のある方と共に学びましょうとの姿勢が取れるのは宜しいように思います。
自己啓発系で学んでいた頃、如何に有名になるかとか・講師として儲けれるか・・みたいなノリがありました。それでは腹黒くなってしまうと思われます。
大乗仏教のお坊様もお釈迦様の教えを伝えて下さる方として、お釈迦様の真意を元に導いて下さる流れがあれば宜しいのでは、と想像致します。実際には日本テーラワーダ仏教協会のお坊様と連携するような形になるのではと思います。