偏見と 主観乗り越え 解脱した ブッダと弟子を 供養するなら(195)及び(196)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。

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偏見と 主観乗り越え 解脱した ブッダと弟子を 供養するなら(195)
阿羅漢を 供養するなら その功徳 どんな人でも 数えられない(196)


○子供のためのダンマパダ

ありのままに見ることは
信じられないくらいに難しいことです
それができないから
世の中は問題が多いのです

ありのままに見る人は
すべての問題を解決します
そのような人を尊敬するならば
数えられないほど良いことがあります


○パーリ語原文と訳語

プージャーラヘー   プージャヤトー
Pūjārahe       pūjayato,
供養にふさわしい   供養するならば
    
ブッデー  ヤディ ワ  サーワケー
buddhe   yadi   va   sāvake;
ブッダ   もし  或は  弟子を

パパンチャサマティッカンテー
Papañcasamatikkante,
捏造を乗り越え

ティンナソーカパリッダウェー
tiṇṇasokapariddave.
憂いと悲しみを超え(196)


テー   ターディセー  プージャヤトー
Te     tādise     pūjayato,
彼らを  そのような   供養をするならば

ニッブテー   アクトーバイェー
nibbute     akutobhaye;
涅槃に達した  何も恐れのない

ナ  サッカー  プンニャン  サンカートゥン
Na   sakkā   puññaṃ    saṅkhātuṃ,
 できない    功徳を    数えることが

イメッタマピ   ケーナチ
imettamapi    kenaci.
この ここに   いかなる誰も(196)


○直訳
ねつ造を乗り越え、
憂い悲しみを超え
供養にふさわしい
ブッダ或は弟子を供養するならば(195)

涅槃に達した、何も恐れない
そのような彼らを供養するならば
いかなる誰もここに
この功徳を数えることができない(196)


○一口メモ
195番の詩の意味は途中で終わって、196番に続きます。ですから今回も二つの詩を掲載します。この二つの詩には二つの重要なポイントがあります。

一つはPapañcasamatikkante(ねつ造を乗り越え)のPapañca(パパンチャ)の意味です。スマナサーラ長老は、これを捏造という言葉で訳されています。パーリ語辞典には「障碍、戯論、迷執、妄想」という訳語がありますが、適切な訳語ではないようです。外部情報を主観的に捏造してしまう心の作用です。心にはこのパパンチャの作用があるため、私たちはありのままにものを見ることができないのです。悟るということは、ありのままに見ることができるようになることで、このパパンチャを乗り越えれば、悟ったと言えるのです。

パパンチャを乗り越えた方は、悟られているので当然、憂いと悲しみを超えています。ブッダとその聖なる弟子(阿羅漢)はそのような方々なのです。そのような方々は供養を受けるのに相応しく、その方々を供養すれば、・・・ここで195番は終わります。

もう一つのポイントは、196番の「涅槃に達した方(阿羅漢)への功徳は誰も数えられないほど大きい」ということです。これについては、「中部経典第142施分別経」に次のように書かれています。

個人への布施の功徳の大きさを順に上げれば、①ブッダ、②独覚、③ブッダの弟子の阿羅漢、④阿羅漢道者、⑤不還者、⑥不還道者、⑦一来者、⑧一来道者、⑨預流者、⑩預流道者、⑪離欲の外教者、⑫凡夫の持戒者、⑬凡夫の破戒者、⑭動物、です。

このうち、⑭動物に布施をすると100の功徳があるとすれば、⑬凡夫の破戒者に布施をすれば1000の功徳、⑫凡夫の持戒者に布施をすれば10000の功徳、⑪離欲の外教者に布施をすれば、100000の功徳と言うようになり、阿羅漢への布施の功徳は本当に数えられないくらいだということです。

この二つの詩で「第14 ブッダの章」が終わります。また新たな側面から仏教を語ることになります。次は「第15 幸福の章」です。幸福に期待してください。

偏見と 主観乗り越え 解脱した ブッダと弟子を 供養するなら(195)
阿羅漢を 供養するなら その功徳 どんな人でも 数えられない(196)


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200807/article_9.html
http://76263383.at.webry.info/200905/article_22.html
http://76263383.at.webry.info/201003/article_31.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

あすか
2012年09月10日 07:37
Papañcaをのりこえるのは
確かに容易ではありません。
お釈迦様、その言葉、
守ってきた皆様に感謝します。

なにせ二千年の時と長い距離。
ブッダ、仏、などの単語でも
意味や解釈もいろいろ。
学ぶにも智慧が必要ですね。
2012年09月10日 07:54
おはようございます。
確かにこの世の中で「離欲」を説き、
またそれを実践し、それに達成された方にお布施をするという行為は、得難い事だと思います。

世の中で眼ある人のみがそれを行うんでしょうね。
慈悲と智慧
2012年09月10日 08:48
何故、ありのままに見るのは、難しいのでしょうか?

それは、ものすごい精進が必要だからだと思います。

精進することは、何故難しいのでしょうか?

それは、【怠け】があるからだと思います。

私は、長老のファンになって長いですが、

最後は、【怠け】という壁が立ちはだかります。

仏教的に怠けないためには、どうすればいいのか?

それを智慧を使って考えると、とてもレベルアップすると思います。

そのために、一つ言えることは、耳が痛い話や現状を受け入れなければいけないということです。

私が、長老から学んだ【怠けない】ために必要なこと、それは【理性的な不安】を持つことです。

耳障りの良い法話ばかり聞いてもレベルアップは出来ません。

智慧を使って、怠けられない状況を作ることが大事だと思います。

仏教は、強制されてやるものでは、ありませんが、自ら納得しても、結局怠けてしまうからです。
noritarou
2012年09月10日 10:06
もちろん、悪いと思う情報をブロックした方がいいのでしょう。ただ、そうしたものを我慢して避けたとしても、いつまで避ければよいのでしょうか?死ぬ寸前に、自分が悪いと思って我慢していたそれに心をとらわれたら、どうなるのでしょうか?自分の好みの情報の中だけで生きることが、自由でしょうか?私たちは生きていて、認識し続けるから迷いも出てくるのでしょう。なので、私は、よい・悪いの判断もしないようにしています。
私は、五感で受けた情報を、捏造しないでありのままで観たいために、無常随念をします。
五蘊は無常で、非我です。思考さえ自分のものではあり得ません。この世にあるものは、いっときの感情をあおるだけで、幸福をもたらせてくれません。
>およそ生じる性質のものは、全て滅する性質のものである。
>生きとし生けるものが幸せでありますように。

ワンギーサ先生をはじめ、このような、とうてい1人では得難い、深遠な真実の教えを伝えてくれる仏法僧に感謝致します。
カエルくん
2012年09月10日 20:51
こんばんは。
ありのままに見る、それがどれだけ難しいことか。
初学者の私でも分かる気がします。
そして、いつまでたっても初学者から抜け出せずにいるのは、怠けのせいですね。
それでも穏やかな気持ちで毎日を過ごせるのは、こうしてブログを読んだり、ダウンロードした説法を聞いたりして、崩れそうになる自分の心をこつこつと立て直しているからかな、と思います。あまり前進していませんが、下がってもいないと思いたいです。
慈悲の瞑想は毎日しています。
ヴィパッサナーはやったりやらなかったりです。
お布施もしたりしなかったり…。
でも一番楽しいのはお布施です(一番辛いのはヴィパッサナーです)。
仕事するのはお布施するため、と思うことにしています。そうするとしんどい時も乗り切れます。
これに功徳まで付いてくるなんて、ラッキー、という感じです^^
SRKWブッダ
2014年09月21日 19:50
供養の果報とは功徳のことである。したがって、よく供養した人は誰よりも高い覚りの階梯に、誰よりもすみやかに至るべきであり、至らなくてはならない。そうであってこそ、その供養は正しく為されたのである。

供養は行って終わりなのではなく、自ら仏になることについての揺るぎなき「その決心」を為したことの証に他ならない。

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こころざし
2015年12月09日 07:32
ありのままに見る事は、認識・固定概念が当たり前にある自分にとって難しい印象を感じる事もあります。
ですが、こちらで学ばせて頂いて、現在特に欲について減っているように感じる事があります。これは少額でもお布施や寄付をさせて頂いている事の反動(?)にも感じます。
お布施をさせて頂くと共に、心が成長できるように・ねつ造を減らせるように、師から学び・実践して参りたいです。