何ものも 持たないゆえに 心から 気楽に生きる 光音天のごとく(200)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。

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○子供のためのダンマパダ

赤ちゃんは何も持たずに
生まれてきます
喜びさえあれば大丈夫
気楽に生きていけますよ


○パーリ語原文と訳語

ススカン  ワタ  ジーワーマ
Susukhaṃ  vata  jīvāma,
真に安楽  実に  生きよう

イェーサン ノー   ナッティ キンチャナン
yesaṃ    no    natthi   kiñcanaṃ;
所の    我々は  ない   何も

ピーティバッカー   バウィッサーマ
Pītibhakkhā      bhavissāma,
喜びを食とする者   でいよう

デーワー  アーバッサラー  ヤター
devā    ābhassarā     yathā.
神々    光音天      のように


○直訳
実に真に安楽に生きよう
何もない所のわれわれは
神々、光音天のように
喜びを食とする者でいよう

訳注:光音天という神々は喜びをエネルギーにして生きていると言われています。ですから、明るく喜びを持って生きている人々のそばに集まってくるそうです。暗く怒りや憎しみのある人々には近づきません。


○一口メモ
今回の詩は、三日連続して紹介した同形式と異なるものですが、一行目は同じ句です。すなわち、「実に真に安楽に生きよう」というブッダのメッセージです。

二行目からが異なります。「何もない所のわれわれは」となります。普通に考えれば、「何もないけれども、安楽に生きよう」言うようになりますが、実はブッダはそのように言われているのではないと思います。ブッダは「何もないから、安楽に生きることができますよ」と仰っておられるのだと思います。

ではなぜ何もないと、安楽に生きることができるのでしょうか?
何か大切な物、高価なものがあるといろいろ心配があるのです、壊れないか、なくならないか、盗まれないかなど悩まなければいけません。保険に掛けたりする必要があります。そんなものがなければそんな心配は必要ありません。ですから安心していられません。その究極の形が何もないことです。何もないのですから、心配はゼロです。究極の安心、安楽なのです。

しかも、ダンマパダ62番で学んだ詩によれば、
「愚か者 子や財産で 苦悩する 自分も自分の ものではないのに」ということです。
http://76263383.at.webry.info/201205/article_7.html
自分自身でさえ自分のものでないのですから、自分のものと言えるものはないのです。つまり自分のもは何もないのですから、安心、安楽に生きていけるのです。

ここで一つ「何もなくて、どうやって生きていくのだ」という反論について考えてみましょう。それに対する回答は、人間(全ての生命も同じ)の一生をつぶさに観察すれば分かることなのです。赤ん坊は何も持たずに生まれてきます。親の世話で生きて成長します。その後、子供はいろいろな物を持ちますが、それらはすべてもらったり、借りたりしたものです。本当はその子のものではありません。それから勉強して、就職して、自分で働けるようになります。そのために必要なものはもらったり、借りたりしたものです。就職してからも同じです。そして、最期死ぬときはすべて(業以外)、捨てて死ぬのです。生きるために必要なものはその時、その時、備わるようになっているのです(業の法則)。ですからなにも心配いらないのです。皆様も何か心配したり、悩んでいる人がいたら、このブッダのメッセージを教えて下さい。

何ものも 持たないゆえに 心から 気楽に生きる 光音天のごとく(200)


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200807/article_11.html
http://76263383.at.webry.info/200905/article_24.html
http://76263383.at.webry.info/201004/article_2.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年09月14日 05:55
おはようございます。

将来への不安が強い性質です。
もしも今の仕事を続けられなくなったらどうしようと心配して、毎週日曜日、新聞の折り込み広告に入ってくる求人広告を見ることをやめられません。
でもそれよりも、今の仕事をどうしたら全うできるかな、ということに集中したほうが建設的かな、と今日の解説を読んで思いました。
本当に必要なものは備わる、ということを信じてみようと思います。
あすか
2012年09月14日 06:51
物だけでなく地位や名誉…、
「所有」にとらわれ過ぎると
苦しくなりますね。
全ては大自然や社会からの借り物、
必要最小限、使わせていただく、
と考えると楽になれます。

「喜び」をエネルギーに
今日もよい幸せな一日を。
noritarou
2012年09月14日 09:54
>何もない所のわれわれ

およそ生じる性質のものは、すべて滅する性質のものだと言われます。
その言葉からしても、肉体も、思考も、認識も、「自分」や「他人」と言う者は、ありえません。
ただ、因縁により生じる一瞬の現象があるに過ぎません。
信念も、信仰も、記憶も、自分が、自分(がためてきたあらゆるもの)でないとしたら、それは本当の自由だと思います。
そこでは、一切の区別はなくなるでしょう。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
ささ
2012年09月14日 23:26
こんばんは。

長老の法話に出てきた「何もいらないという状態が本当の幸福です。」というお言葉。幸せを感じるとき、まさにそのような状態になっていると思いました。

必要かどうか考える、執着しないということを心がけることも、今日の偈に通じているのだなと感じます。
お釈迦さまの教えはすべてつながっていますね。
SRKWブッダ
2014年09月08日 17:11
何もないと、安楽に生きることができる:

無実の罪を疑われて、罰せられ、あるいは殺されてしまう。理不尽なことであるが、相手にそう思われるだけの何某か根拠を与えてしまっているならば、自分にも非があると認めなければならないだろう。

ところで、釈尊の時代、僧伽(サンガ)は基本的に山奥の静かな場所に形成されたと言う。もし、僧伽(サンガ)の中に財がうなり、修行者たちが豪奢な装いをして、徒党を組んでいるならば、山賊だと見なされても言い訳は出来ないだろう。何もないことによって、この危険を回避することが出来、(釈明などの雑事無く、)修行に専念する環境が整うであろう。

なお、何もないことによって、通常の意味で余計な心配事がなくなるのはもちろんである。

***
こころざし
2015年12月11日 08:24
私事をすみません(本文とずれてしまい恐縮ですが)年末家族旅行に行く予定で、その予算として○○円が必要になります。また、個人年金の支払いやその後の車の車検で・・と資金的配慮がいる印象を感じています。
もしそれらがなければ心配的なもの?がなくなるような印象を感じています。
そんな事で影響受ける器の小さい自分を恥じつつ、余計なものを持たないようにして参りたいです。