人々は 山や森などを あがめるは 不安になると そこに出かける(188)山も森も 安心できる ものが
阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。
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9月23日(日)ゴータミー精舎 バザーのご案内
来る9月23日(日)、東京・幡ヶ谷のゴータミー精舎にて、有志の方が東日本復興応援バザーを開催します。詳細はこちらをご覧下さい。http://www.geocities.jp/msrwp662/
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人々は 山や森などを あがめるは 不安になると そこに出かける(188)
山も森も 安心できる ものがない 苦しみからは 解放されない(189)
○子供のためのダンマパダ
神社やお寺や教会に
何しに行くの?
子供には分からないかな
大人はそこに
お参りにいくのだが
お参りに行っても
効果はないと思います
○パーリ語原文と訳語
188.
バフン ウェー サラナン ヤンティ
Bahuṃ ve saraṇaṃ yanti,
多くの 実に 帰依所に 行く
パッバターニ ワナーニ チャ
pabbatāni vanāni ca;
山に 林に また
アーラーマルッカチェーティヤーニ
Ārāmarukkhacetyāni,
園に 樹に 社に
マヌッサー バヤタッジター
Manussā bhayatajjitā.
人々は 恐怖によって
189.
ネータン コー サラナン ケーマン
Netaṃ kho saraṇaṃ khemaṃ,
この(ない) 実に 帰依所 安穏な
ネータン サラナムッタマン
netaṃ saraṇamuttamaṃ;
この(ない) 帰依所は最上で
ネータン サラナマーガンマ
Netaṃ saraṇamāgamma,
この(ない) 帰依所によっても
サッバドゥッカー パムッチャティ
sabbadukkhā pamuccati.
一切の苦から 解放され
○直訳
人々は恐怖によって
実に多くの帰依所に行く
山に林にまた
園に樹に社に(188)
実にこの帰依所は安穏でない
この帰依所は最上でない
この帰依所によっても
一切の苦から解放されない(189)
○一口メモ
今回は五つの詩で一つのテーマを歌ったものなのですが、そのうち始めの二つを掲載します。
生命にはどうしても生きていきたい、死にたくないという本能があります。しかし、生命は大自然の中で非常に弱い存在なのです。絶えず生命は危険にさらされています。これらに対して無力な生命は恐怖を感じています。これらの恐怖から逃れるために、何かに頼ろうとします。しかし無知な生命(人間)は、それが頼れるものかどうか根拠なしに何かに頼ってしまうのです。
188番ではその例として、山、林、園、樹、社(やしろ)を挙げています。
しかし、189番で、それら安全な頼れる物ではない、最上の頼れるものではない、これらの頼っているものに頼っても一切の苦から解放されないと述べています。この言葉は明日述べる詩の伏線になっており、明日、何に頼ればよいか分かるのです。
以上、帰依所を頼れるもの、頼るものと表現しました。しかし、仏教では何かに頼ること依存することを否定して、頼らない、依存しないことを目指していますから、「何に頼ればいいか」とい問いは本来望ましくないもののように考えられます。そのことも明日解明したいと思います。
○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/201003/article_28.html
http://76263383.at.webry.info/200905/article_19.html
http://76263383.at.webry.info/200807/article_6.html
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーをクリックして下さい。
記事内容の改善の参考にしたいと思っています。
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人々は 山や森などを あがめるは 不安になると そこに出かける(188)
山も森も 安心できる ものがない 苦しみからは 解放されない(189)
○子供のためのダンマパダ
神社やお寺や教会に
何しに行くの?
子供には分からないかな
大人はそこに
お参りにいくのだが
お参りに行っても
効果はないと思います
○パーリ語原文と訳語
188.
バフン ウェー サラナン ヤンティ
Bahuṃ ve saraṇaṃ yanti,
多くの 実に 帰依所に 行く
パッバターニ ワナーニ チャ
pabbatāni vanāni ca;
山に 林に また
アーラーマルッカチェーティヤーニ
Ārāmarukkhacetyāni,
園に 樹に 社に
マヌッサー バヤタッジター
Manussā bhayatajjitā.
人々は 恐怖によって
189.
ネータン コー サラナン ケーマン
Netaṃ kho saraṇaṃ khemaṃ,
この(ない) 実に 帰依所 安穏な
ネータン サラナムッタマン
netaṃ saraṇamuttamaṃ;
この(ない) 帰依所は最上で
ネータン サラナマーガンマ
Netaṃ saraṇamāgamma,
この(ない) 帰依所によっても
サッバドゥッカー パムッチャティ
sabbadukkhā pamuccati.
一切の苦から 解放され
○直訳
人々は恐怖によって
実に多くの帰依所に行く
山に林にまた
園に樹に社に(188)
実にこの帰依所は安穏でない
この帰依所は最上でない
この帰依所によっても
一切の苦から解放されない(189)
○一口メモ
今回は五つの詩で一つのテーマを歌ったものなのですが、そのうち始めの二つを掲載します。
生命にはどうしても生きていきたい、死にたくないという本能があります。しかし、生命は大自然の中で非常に弱い存在なのです。絶えず生命は危険にさらされています。これらに対して無力な生命は恐怖を感じています。これらの恐怖から逃れるために、何かに頼ろうとします。しかし無知な生命(人間)は、それが頼れるものかどうか根拠なしに何かに頼ってしまうのです。
188番ではその例として、山、林、園、樹、社(やしろ)を挙げています。
しかし、189番で、それら安全な頼れる物ではない、最上の頼れるものではない、これらの頼っているものに頼っても一切の苦から解放されないと述べています。この言葉は明日述べる詩の伏線になっており、明日、何に頼ればよいか分かるのです。
以上、帰依所を頼れるもの、頼るものと表現しました。しかし、仏教では何かに頼ること依存することを否定して、頼らない、依存しないことを目指していますから、「何に頼ればいいか」とい問いは本来望ましくないもののように考えられます。そのことも明日解明したいと思います。
○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/201003/article_28.html
http://76263383.at.webry.info/200905/article_19.html
http://76263383.at.webry.info/200807/article_6.html
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
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この記事へのコメント
ただ、私が思うのは、一切は無常・苦・無我の理解をもとに、山でも、石でも、自分でも、法でも、対象は何であれ、自分の全てを帰依することが出来たら、そこに苦しむ「人」はいないとも思えます。そこには山も石も自分も、実体はありません。そこから出てきた時、初めて山や石や自分に新たに出会います。完全な安穏の中にいたら、一体「誰」が苦しむ事が出来るでしょうか。
ブッダの教えに帰依します。生きとし生けるものが幸せでありますように。
自分のやすらぎのために、人との“絆”を求める。
これは正しいのでしょうか?
そもそもが、切っても切れない因縁でつながった者同士が、さらに絆を深めるというのは間違いのような気もします。
やおろずの神様はいるかもしれないし、いないかもしれない。よく分りません。
なので神社に行ったら、ご挨拶をすることにしています^^
名前を名乗り、その土地の神様(?)を寿ぎ、最後に「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じて締めくくります。
けっこう、気分がいいので続けています。
今に感謝しに行くものだ
とおそわっています。
明日の偈を楽しみに、
慈悲の瞑想と座る瞑想をして
早めに休みます。
こちらで学ばせて頂き、そんな事では本当の幸せは得られないと感じています。どちらかというと主催者の収入を増やすお客さん状態になる一面もあるでしょうか。それが一概にあ悪いとは思いませんが、心の成長に本当に繋がるものに時間・資金等を使って参りたいです。
https://noritsu.seesaa.net/article/201209article_6.html