多弁者は 法持者でない 身をもって 実践する人が 法持者なり(259)

○子供のためのダンマパダ。
物知りだからと言って、
偉いわけではありません。
すべての生命の幸せ願い、
こころの穏やかな人が、
本当に偉い人であり、
かれには怠ける気持ちはありません。


○パーリ語原文と訳語

ナ   ターワター ダンマダロー
Na   tāvatā    dhammadharo,
ない  それで   法を持つ者では

ヤーワター  バフ  バーサティ
yāvatā    bahu   bhāsati;
所の者は   多く   語る

ヨー   チャ   アッパンピ  ストゥワーナ
Yo     ca    appampi    sutvāna,
所の者が  しかし  少だけ    聞く

ダンマン  カーイェーナ  パッサティ
dhammaṃ  kāyena     passati;
法を    体によって   見る

サ  ウェー  ダンマダロー  ホーティ
Sa   ve    dhammadharo  hoti,
彼は  実に  法を持つ者で  ある

ヨー    ダンマン   ナッパマッジャティ
yo     dhammaṃ   nappamajjati.
所の者は  法を     放逸しない


○直訳
多く語る所の者は
それで法を持つ者ではない
しかし少し聞く所の者が
身体によって法を見る
法を放逸しない所の者は
彼は実に法を持つ者である


○意訳
多く語るからと言って
法持者ではない
聞くことが少なくとも
法を身体で実践する人
彼こそは実に法持者
気づきのある人である


○一口メモ
今回の詩の「法を持つ者」、「法持者」は「法住者」と同じ意味を持つ言葉です。これらの人々は法(真理、道理、法則)に従って、自我を捨てて生きている人々です。今回の詩でも、多く語るから法持者ではないと述べられています。また、「聞くことが少なくとも」とは、以前に書きましたが、「多く学ばなくとも」という意味です。

しかし、次のことが大切なのです。「身体によって法を見る」ことが大切なのです。身体によって法を見るとはどういうことでしょうか。法を実際に行うこと、実践することです。五戒について学べば、五戒を実践することです。瞑想の方法を教えてもらったならば、すぐにそれを実践することです。慈しみについて学べば、人々に、怒りを持つことなく、慈しみを実践することです。

そのような人が法持者(法住者)というのです。そのような人は「法を放逸しない所の者」なのです。つまり、気づきを怠らない人なのだとこの詩は述べています。

では具体的にはどのような人なのでしょうか。この詩の因縁物語を読むと分かります。このお話はなかなかいい話なので毎回紹介していますが、今回も紹介いたします。

 一感嘆句長老という方がおられました。その長老は「超越したこころの状態を持ち不放逸である、寂黙の道を歩み聖者になっている、平安に達して常に気づきある、そのような人に憂いはない。」というブッダの言葉を深く理解して、実践して阿羅漢になっていました。彼はその他の経典を学ぶ興味はなく、いつもこのブッダの言葉をだけを説法しました。彼が森の中でこの詩を語たると、森の中で、神々がこの説法を聞き、「サードゥ、 サードゥ、 サードゥ」という声が響くということでした。ある時、この森に三蔵経に通じた比丘二人が来ましたので、説法をしてもらいました。しかし、「 サードゥ、サードゥ、 サードゥ」という声は聞こえませんでした。後にこの比丘らは、お釈迦さまに、この話をしたところ、お釈迦さまは今回の259番の詩を唱えられたということです。

この「一口メモ」を書くに当たり、この詩に関するスマナサーラ長老の説法を読み直してみました。完全によく分かるように書かれていました。時間がある時にじっくりお読みください。そのアドレスは次の通りです。
http://www.j-theravada.net/howa/howa151.html


多弁者は 法持者でない 身をもって 実践する人が 法持者なり(259)


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200808/article_17.html
http://76263383.at.webry.info/200907/article_2.html
http://76263383.at.webry.info/201005/article_8.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年10月30日 07:11
おはようございます。
毎日ブログを通じてダンマパダを読んでいても、実践しなければ意味がないのだな、と思いました。
心にスッと入ってくる詩があったら、暗記して、繰返し唱えるのもいいのかもしれない…、と思いました。
あすか
2012年10月30日 21:23
カエルくんに同感です。
たくさん知識があっても、
貪瞋癡で生きていては…。
実践が大切ですね。

「マイ経典」はどれかな。
長老の法話を読み、
日々の学びがますます
楽しみになりました。
MK
2012年10月30日 23:46
こんばんは。
たまに仏教ということを隠して、ブッダの法を親戚や友人に話す事があります。ですが、感動させるどころではありません(苦笑)。
長老の解説によれば、修行中の身であっても、真剣に修行する人は法持者(法住者)だとあります。ということは、せっかく学んだ仏教の真理も、今はただの空念仏。何より、実践が足りないことをズバリ指摘されてしまい、コメントし辛いです(苦笑)。

こうして正面から向き合って考えると、修行しない訳にはいかなくなってきます。いい加減、頭でっかちになってないで、実践しなくては…と思います。
こころざし
2015年12月26日 07:45
私事ですが、職場の配置部署を4人で回しています。退職者に伴う補充が出来ず、そのうちの二人は70代のパートです。ご年齢もありお手伝い的な役割以上は難しい面があり、実質は二人で回しています。
そのパートの方と先日話した時「気持ちはあります」と力説をされていました。その時に気持ちだけとはこのような事かなと感じました。
気持ちに加えて実践が出来るように、自分を律して参りたいです。