ハスの花 手で折るように 自己愛を 切り取り捨てて 涅槃に進め(285)

○子供のためのダンマパダ。
・・・
私は私が一番大好き。
僕は僕が一番大好き、
君は君が一番大好き、
皆おんなじ心を持っているね。


○パーリ語原文と訳語
ウッチンダ  スィネーハマッタノー
Ucchinda   sinehamattano
破壊せよ   愛執を 自己の

クムダン  サーラディカンワー  パーニナー
kumudaṃ  sāradikaṃva     pāṇinā;
ハスを   秋の ように     手で

サンティマッガメーワ  ブルーハヤ
Santimaggameva     brūhaya,
寂静の 道をのみ     育成せよ

ニッバーナン  スガテーナ      デースィタン
nibbānaṃ    sugatena       desitaṃ.
涅槃を     善逝(仏陀)よって  示された


○直訳
自己の愛執を破壊せよ
秋のハスを手で(折る)ように
寂静の道のみを育成せよ
涅槃を善逝(仏陀)よって示された


○意訳
秋のハスを手で切る取るように
自我への愛着を切り取れ
寂静への道のみを修行せよ
涅槃は仏陀の説かれたものだ


○一口メモ
 この詩は因縁物語を知っていた方が理解し易いでしょう。若い比丘が肉体の32の部分を観察し、肉体は不浄なものであることを理解して、欲から離れることを目的にした冥想法に取り組みましたが、この比丘は不浄なものに強い拒否反応を示し、冥想修行が成功しませんでした。釈尊はこのことを知り、彼にハスの花を観察する冥想法を指導しました。彼はすぐに深い冥想に入ることができるようになり、美しいハスの花が次第に衰え、醜く枯れていく変化を見て、無常、苦、無我を観察することができました。その時、釈尊は上の詩をのべられたのです。この説法によってこの比丘は阿羅漢果を得たということです。

 人には個性がありますから、一般的には性欲の強い若者には、死体の観察などの不浄なものを観察する不浄観の瞑想は、欲を消すためには効果があるのです。しかし、この因縁物語の若者はそうではなく、ハスの花のような美しいものの方が集中することができ、瞑想修行に成功するということがあるようです。ですから、瞑想の指導は、瞑想者の個性を正確に見抜かなければならなおので、非常に難しいことなのです。指導者しだいで弟子が成功するかどうかが決まるということはあるのです。

 さて、この詩で、ハスで象徴されるものは、自己の愛執(自我への執着)は、自己愛と言えるものなのです。ですから、「断つがよい(切り取れ)」と言われても簡単ではないでしょう。まず、自己、自己愛、自我について、理解を深める必要があります。

 ダンマパダ277、278、279番で、「あらゆる行は無常なり」、「あらゆる行は苦なり」、「あらゆる法は無我なり」と学びました。そうすると、「自己は無常なり」、「自己は苦なり」、「自己は無我なり」ということになります。無常なものに執着する必要はありません。苦なるものに執着する必要はありません。無我なるものに執着する必要はないのです。このことが解れば、すぐに「自己の愛執は断つことができます。ですから、まず理解することが大切です。



ハスの花 手で折るように 自己愛を 切り取り捨てて 涅槃に進め(285)


○スマナサーラ長老のこの詩に関する御説法
*実践法の向きと不向き ~冥想指導は簡単なものではない~
http://www.j-theravada.net/howa/howa168.html

○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
*285.自己の愛執を断つがよい秋の蓮を手たつように
http://76263383.at.webry.info/201005/article_25.html
*ハスの花手で折るように自己愛を切り取り捨てて涅槃に進め
http://76263383.at.webry.info/200907/article_20.html
* 自分にあった経典あればそれを身につけ修行せよ
http://76263383.at.webry.info/200809/article_6.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。



~~~~~お知らせ~~~~~

◎10月30日雨安居は終了しましたが、ワンギーサがゴータミー精舎に滞在中は
朝5時から7時まで及び夜7時から9時までのゴータミー精舎での自主瞑想会は
毎日行います。ふるって参加して下さい。但し木曜の夜は、瞑想会は休みます。
詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。

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この記事へのコメント

あすか
2012年11月21日 11:52
蓮の例え、きれいですね。
今、夏の植物も枯れゆく時期、
植物から学ぶことも多いです。
才木広之
2012年11月21日 18:03
心に響きました。
心に芽生えた感情を
綺麗で大切な蓮を折ってしまうような
イメージで、自分に芽生えた感情に
当てはめてみます。

ワンギーサ長老の、法話が私の抱いた感情にぴったりだったので驚きました。もしかしたら、かも、です。
試して確かめてみます。幸せでありますように
Y
2012年11月22日 07:41
23日は敬老の日ですが、去年のその日は、祖母のグループホームへ行ったと日記に書いてありました。
認知症の祖母は私を見てすぐに私の名前を呼んだ、と追記してあります。当時、祖母が名前を憶えていたのは自分の子供達と、孫では私だけなのでした。
去年のその日、私はものすごく嬉しく、誇らしかったはずです。でも日記を読み返すまで、そのことをすっかり忘れていました。
それ以上にふと気づけば、私は先日、自分が執着する家族の中に祖母を挙げませんでした。正直なところ、祖母の存在が希薄になっているのです。
折しも、誓教寺報でスマナサーラ長老の「お迎えに備える」を読みました。http://www.seikyoji.jp./tsukinami/tukinami177.pdf

私にとって祖母は執着の対象から「覚悟」へ変わっていたのです。
いつか私のことも同じように、どんなに手をかけた孫も、子供も、私のことを忘れていくのでしょう。
誰よりも「私」をこの上なく大事にしているこの私ですら、「私」を必ず捨て去っていくのですね。
SRKWブッダ
2014年08月17日 01:03
不浄観は、外的なものを観察することによって、世を厭う気持ちを定めようとするものである。この観察が頂点に達した時、執著を断ち切るチャンスが訪れる。

蓮の花を観じる方法は、内的なものを観察することによって、自己の完成を目指すものである。この観察によってふと心の安定統一が現れたとき、満を持して執著を捨て去るチャンスが訪れる。

いずれの方法によっても、為し遂げたならば、身解脱(形態(rupa)の解脱)を生じて阿羅漢となることが期待され得る。

***
真宗オショー
2014年09月12日 09:22
 ありがとうございます。非常にわかりやすい!合掌
こころざし
2016年01月01日 07:07
自己、自己愛、自我は今の自分に強烈にあります。ですがこちらで学ばせて頂いて少し薄くなっている面もあると思います。
自我の錯覚を元に生じていると多少感じれても、強固になっているそれらは容易にびくともしない様な頑丈さを感じます。
ですが元から断てれば、それらを捨てれるかもしれないとも思います。自身の錯覚に早く心の域で気づけるように精進したいです。