法津(のりつ)如来 の独り言

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zoom RSS 托鉢で 托鉢僧に なれないぞ 不浄の人は ソウでないから(分かるかな)(266)及び(267)

<<   作成日時 : 2012/11/06 18:52   >>

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○子供のためのダンマパダ。
洋服売る人は洋服屋さん、
野菜売る人は八百屋さん、
家を作る人は大工さん、
お坊さんは?
お経をあげて、
お布施をもらう人ではないよ。
心をきれいにして、
幸せになる方法を教える人。


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〜〜〜お知らせ〜〜〜
◎11月2日(金)より、4日(日)まで、サーバーのメンテナンスのため、ブログ更新ができませんでした。
「朝起きて 無益な詩歌 千よりも 心静まる 一つの詩歌(101)」
と言うつもりで、ブッダの詩を毎朝ブログで紹介してまいりましので、非常に残念です。
しかし、5日からはまた毎日更新しました。よろしくお願いいたします。
ところが、今朝ブログをしようとしましたが、メンテナンス終了の筈ですが、記事の更新ができない状態でした。まだメンテナンスが安定していませんので、どうなるかわりません。もう少し、辛抱しなければなりません。

◎10月30日雨安居は終了しましたが、ワンギーサがゴータミー精舎に滞在中は
朝5時から7時まで及び夜7時から9時までのゴータミー精舎での自主瞑想会は
毎日行います。ふるって参加して下さい。ただし木曜の夜の瞑想会は休みます。
詳細はワンギーサの携帯番号090−2311−9317に御連絡下さい。

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○パーリ語原文と訳語

ナ   テーナ   ビック   ホーティ
Na   tena     bhikkhu  hoti,
ない  それにより 比丘で  (ある)

ヤーワター  ビッカテー   パレー
yāvatā     bhikkhate   pare;
それだけで  食を乞う    他人に

ウィッサン  ダンマン   サマーダーヤ
Vissaṃ    dhammaṃ   samādāya,
不正な    法を     受持するならば

ビック   ホーティ  ナ  ターワター
bhikkhu   hoti    na   tāvatā.
比丘に   なら    ない それだけで(266)


ヨーダ       プンニャンチャ  パーパンチャ
Yodha        puññañca     pāpañca,
所の者 この世で   功徳(善)と   悪を

バーヘートゥワー  ブラフマチャリヤワー
bāhetvā       brahmacariyavā ;
拒否して      梵行ある者は

サンカーヤ  ローケー  チャラティ
Saṅkhāya   loke     carati,
究めて    世を     行く

サ   ウェー  ビックーティ  ウッチャティ
sa    ve     bhikkhūti    vuccati.
彼は  実に   比丘と     言われる(267)


○直訳
他人に食を乞う、それだけで
それにより比丘でない
不正な法を受持するならば
それだけで比丘にならない(266)

この世で善と悪を拒否して
梵行ある所の者は
(善悪を)を究めて世を行く
彼は実に比丘と言われる(267)


○意訳
托鉢するだけで
托鉢僧にはなれない
不浄な行為をする限り
彼は托鉢僧にはなれない

善も悪も離れて
心を清める修行をして
善悪を究め世間を歩む
彼は托鉢僧と呼ばれる


○一口メモ
今回は意訳の「善も悪も離れて、心を清める修行をして」の善悪を離れるということについて、どういうことなのか考えてみようと思います。

「悪を離れ、善を実践して、心を清める修行をして」ならば分かりやすいのですが、善悪を離れてとなると分かり難くなります。

例えで考えてみましょう。ある人が道を急いで歩いていて、そこに立っていた人にぶつかりました。この人は急いでいるものですから、「何でそこに立っているのだ」と思って、立っている人に怒りを持ちました。この人はまた急いで歩いて行きました。(こういう人には不幸が訪れます。)今度は電信柱にぶつかりました。その時は、電信柱に怒りを持つことはできず、自分の不注意を呪うことしかできません。これらの怒りや呪いは、道に立っていた人や電信柱には関係なく、急いで歩いていた人の心の中に起きた現象です。

一方、ある若者が重い荷物を持って歩いている老人の荷物を持ってあげました。この若者の心には善いことをしようとする気持ちもないのです。ただ、困っている老人がいて、自分には力があるので、荷物を持ってあげたと言うだけの事でした。

上に書いたような現象は日常生活でいろいろ形を変えて現れると思います。初めの場合は心に怒りが現れたか悪だと言い、後の例では若者が老人を助けたから善だと言います。しかし、これら場合の悪も善もただ心の中に、ある時、その時だけ現れた現象で、あるとかないとか言えないのです。

しかし、それを「悪だ、善だ」と言っているのは自我なのです。自我は自分自身があるとかないとか言えないくせにいろいろ評価するのです。つまり、ある物には価値を置き執着し、ある物には価値を置かずに軽視したり、怒りを持ったりするのです。

そうではなくて、つねに自分の心を観察し、自我をなくし、心から欲や怒りや無智をなくし、心をきれいにして、慈悲喜捨の心で満たすようにすればよいのです。それが「善も悪も離れて、心を清める修行をして」と言うことです。


托鉢で 托鉢僧に なれないぞ 不浄の人は ソウでないから(266)

善悪を ともに離れて 梵行し 熟慮して住む 彼は托鉢僧(267)


○スマナサーラ長老のこの詩に関する御説法
*「托鉢は乞食行ではありません」〜真理に達することで比丘になる〜
 Liberate your mind to become a genuine monk
http://www.j-theravada.net/howa/howa155.html

○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200808/article_21.html
http://76263383.at.webry.info/200907/article_6.html
http://76263383.at.webry.info/201005/article_12.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは。
今日もダンマパダを学べるのは、ありがたいことなのだな、と思います。

善悪を離れて、と言われると難しいですが、悪行為をせずに、善行為に執着せずに、ということでしょうか。例えに出てきた若者のように、自分のした善行為にとらわれずにいられるようにならなければ、と思いました。
カエルくん
2012/11/06 19:26
こんばんは。
物事や現象にすぐ価値を置くのはある種自然な事だと思います。でも、だからこそ理解するのに難儀したのだなと思いました。仏教で考える事は、貪瞋痴の心で思考していては全く理解が出来ないです。
今回の詩で学ぶことは、正にカエルくんが仰っている通り、悪を為さず、善に執着しないという状態を目指すべき、ということなのだと思います。
そして、その方法は、解説の最後にある通り、慈悲と智慧で心を満たすことなのだと理解しました。

やはり、俗世間の考え方からは到底生まれない方法だなと思います。
MK
2012/11/07 00:28
協会HP内を検索していましたら、「善悪を離れるということ」について関係あるような
長老さまのQ&Aがあり、ふむふむ・・と思いながら、
「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)【88】 善行為を身近に、
をもくぎょは読んだのでございます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これはもくぎょの、プチメモ、でございます。

プチ1、お釈迦さまは、否定形を使って具体的に説かれるのです。「悪は貪・瞋・痴、善は不貪・不瞋・不痴だよ」と

プチ2、善いことをしようとがんばるのではなく、悪いことをしないようにがんばる

プチ3、本物の善行為は派手ではない。ずいぶん質素です

プチ4、「私が善いことをやるぞ」と思ってやる行為は、たいがい汚れています

プチ・・あ、もういいや。グサグサ刺さる長老さまのお言葉(^^;

「朝起きて〜 無益なブログ 千よりも〜 心静まる 法句経〜〜」
もくぎょ
2012/11/07 18:59
悪行為から離れるのは
わかりやすいですが、
善行為はうっかり慢が生じて、
しかも気付かないことがあります。

自我を薄め、貪瞋癡を減らし、
慈悲喜捨の心を育てて、
より清らかな心になるよう、
がんばります。
あすか
2012/11/07 20:55
こんにちは。

スマナサーラ長老のこの詩に関する御説法*「托鉢は乞食行ではありません」〜真理に達することで比丘になる〜

を拝読致しまして改めてたく鉢をされる本物の出家修行僧の方って凄いものだなぁと感じました。m(_ _)m
蒼氓
2012/11/08 14:02
悪や善を意識してそれを○○という状況が日常的にあります。意識しないとそればかり、との状況になると思います。
本文の「つねに自分の心を観察し、自我をなくし、心から欲や怒りや無智をなくし、心をきれいにして、慈悲喜捨の心で満たすようにすればよい・・」を拝見し、前述の状態との明らかな違いを感じました。
心から欲や怒りや無智を無くせるように冥想修行を努めたいです。
こころざし
2015/12/27 12:52

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