鉄製や 木や麻のかせ 強くない 財産子供 妻が強いかせ(345)及び(346)

○子供のためのダンマパダ。
・・・
野生の動物は
おりに入れられると、
何とか逃げ出そうとして、
逃げ出すこともあります。
・・・
けれども、その動物の子供を
捕まえていると、
おりがなくとも
逃げて行かないのです。


○パーリ語原文と訳語
345.
ナ   タン  ダルハン  バンダナマーフ  ディーラー
Na   taṃ   daḷhaṃ   bandhanamāhu   dhīrā,
ない  それを  強固な   拘束と  言う   賢者は

ヤダーヤサン  ダールジャン  バッバジャン  チャ
yadāyasaṃ    dārujam    babbajañ    ca ;
それを 鉄製の  木製の     麻製の    しかし
 
サーラッタラッター  マニクンダレース
Sārattarattā      maṇikuṇḍalesu,
執着          宝石や耳飾りに対する

プッテース   ダーレース  チャ  ヤー  アペッカー
puttesu     dāresu     ca   yā    apekkhā.
子供に対する  妻に対する  また  その   愛情が

346.
エータン  ダルハン  バンダナマーフ  ディーラー
Etaṃ    daḷhaṃ   bandhanamāhu  dhīrā,
それを   強固な   拘束と  言う   賢者は

オーハーリナン スィティラン  ドゥッパムンチャン
ohārinaṃ     sithilaṃ     duppamuñcaṃ;
重く       緩やかな    解脱し難い

エータンピ  チェトゥワーナ  パリッバジャンティ
Etampi    chetvāna     paribbajanti,
これさえも  断ち切り     遊行する

アナペッキノー  カーマスカン パハーヤ
anapekkhino    kāmasukhaṃ  pahāya.
求めることなく  愛欲と楽を   捨てて


○直訳
345
鉄製のまた木製の、麻製のそれを
それを強固な拘束と賢者は言わない
しかし、宝石や耳飾りに対する
子供に対する、妻に対する執着、またその愛着が
346
それを強固な拘束と賢者は言う
重く緩やかな解脱し難い
これさえも断ち切り、遊行する
求めることなく愛欲と楽を捨てて


○意訳
345
鉄製、木製、麻製のかせを
強固な拘束と賢者は言わない
宝石や耳飾への執着と
子供や妻への愛情は
346
引力のある、ゆるやかだが
強固な拘束だと賢者は言う
これさえも断ち切って賢者は遊行する
求めることなく、愛欲と快楽を捨てて


○一口メモ
345番と356番の詩は二つの詩と言うよりは、一つの詩です。しかし、四行詩ということで二つの番号が付いているのです。これも形式に拘束されているというべきかもしれません。

賢者は鉄製、木製、麻製のかせを強固な拘束と言わないで、宝石や耳飾への執着と子供や妻への愛情が引力のある、ゆるやかだが、強固な拘束だと言うのです。この通りだと思います。なぜならば、木製、麻製のかせは自由を拘束するものだと、これで拘束された人は思いますが、宝石や子供や妻が自分を拘束しているとは思わないからです。拘束されていると思わなければ、そこから自由になろうとはしません。ですから、それより強い拘束はないのです。

実際には、分かったような分からない話しなのです。実際には私たちはそれに気づいていないからです。自分の好きなものに、拘束されているとは思わないでしょう。

具体的に考えてみましょう。先ず自分の好きなものを列挙してみて下さい。眼、耳、鼻、舌、身、意について調べて下さい。眼では自分の好きなテレビドラマ、耳では好きな音楽、鼻では好きな香り、舌では好きな食べ物、身体では好きなスポーツ、意では好きな読書などそれらに拘束されているとは思いませんよね。ですから、それらに自由を奪われているとは思いません。ですから、それらから離れられません。やはり自由を奪われているのです。

「これさえも断ち切って、賢者は遊行する。求めることなく、愛欲と快楽を捨てて。」とある意味カッコよく述べられていますが、断ち切るということは、好きなものに、自分が拘束されていることに気がついたということです。気が付けば、理解できれば、断ち切ることは難しいことではないのです。好きなのに執着している自分の愚かさに気付いたのですから。人間は自分で愚かだと分かれば、愚かなことはしたくないのです。愚かだと分からないから、愚かなことをするのです。


鉄製や 木や麻のかせ 強くない 財産子供 妻が強いかせ(345)

賢者らは 固くはないが 強いかせ 執着捨てて 諸国をめぐる(346)


○スマナサーラ長老のこの詩に関する御説法
この御説法は日本テーラワーダ仏教協会のHPにまだアップされていません。
2012年7月号のパティパダーの巻頭言に掲載されています。


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
*345.346.鉄製、木製、麻製のかせを強固な拘束と賢者は言わない
http://76263383.at.webry.info/201007/article_1.html

*財産や子供と妻が強い枷賢者は捨てて諸国をめぐる
http://76263383.at.webry.info/200908/article_29.html

*財産や子や妻への執着捨てて賢者遊行する
http://76263383.at.webry.info/200810/article_20.html



○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~お知らせ~~~~~

◎1月12日(土)月例講演会があるため、夜の自主瞑想会はお休みします。

◎1月18日(金)の夜、1月19日朝及び夜の自主瞑想会はお休みします。
ワンギーサがマーヤーデーヴィー精舎における新年祝福法要に参加するためです。

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。
朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。
但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。
変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。
詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。

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この記事へのコメント

まさこ
2013年01月09日 06:55
おはようございます。

好きな人ができたり家族に対しての愛着が強すぎると、それも束縛になるということでしょうか。気をつけます。
kumetsu
2013年01月09日 09:20
確かに財産や妻や子があることが幸せの象徴であって、それらに拘束されているとすら気が付かない場合も多いのだと思います。

しかし、住宅ローンや妻や子のせいで苦しんで、それに拘束されていると気が付いている人も結構多いのではないでしょうか。それでも簡単に捨てることはできません。
「わかっちゃいるけど、やめられない」というのも「渇愛」の特徴の一つなのだと思います。
ですから、ちょっと気が付いたくらいでは、渇愛に勝つことはできないのではないでしょうか。
ここはやはり、戒・定・慧の基本戦略で、諦めずに攻め続けていきたいところです。

皆様の悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
ワンギーサ
2013年01月09日 10:47
kumetsuさん、おはようございます。

その通りであります。
気付いただけでは、捨てられない場合もありますね。
しかし、先ず気づかなければなりません。

今後も、ご意見を賜りたいとおもいます。
あすか
2013年01月09日 11:58
だいぶいろいろな事に
執着しているな、縛られているな、
と気がついてきました。
そしてそれがどんなに苦しいか
今しっかり味わっています。^^;

わかっちゃいるけど、から、
やっぱりやめよう、へと
変わっていけるでしょうか。
そうできるようがんばります。
カエルくん
2013年01月09日 18:17
こんばんは。
一緒に暮らしながら、執着を断つことなんてできるのだろうか…、と思っていましたが、薄めることは可能なのだな、と思うようになりました。
関わることをやめたわけではないのですが、相手に対して慈悲の心で尽くしていると、なぜだか執着が薄まっていきます。
なぜなのかは、自分の中で宿題にしようと思います。
2013年01月09日 21:40
こんばんは。本年もよろしくお願い致します。m(_ _)m

この偈、勉強になります。
2013年01月09日 22:44
今思い出しましたが、この偈の内容は確か増支部か何かの経典本文にも出て来まして、
相応部経典の預流相応にはお釈迦様に在家の人が“自分には妻子とか可愛いし、財産等で楽しんでいるので自分にはとても修行なんて出来ない“と正直に告白する場面があります(概略)。

でお釈迦様はどうお答えになられたかと言いますと、「仏法僧の徳や戒に対してあなたは絶対的、壊れることがない浄信がありますか(概略)?」
在家「それはあります。」

お釈迦様「それならばあなたは預流果を現証している。(預流果に悟っているみたいなものです)。」
みたいな内容の経典があります。

ですので実際に妻子に対して執着をなかなか捨てられなくても、経典の意味を理解する、自分には出来ないが仏陀の言っている事は本当だと心から思っていれば、○だと思われます。

実際教学的には完全に不還果に悟るまでは、五欲の執着は残るのでしょうから。

合掌。
kumetsu
2013年01月10日 00:50
ワンギーサ先生

気付いただけでは捨てられないとしても、「まず気付かなければなりません。」とのご指摘は、真にそのとおりだと思います。この気付きこそが、いわば真っ暗闇の無明の世界を智慧の光で満たしていくための第一歩となることでしょう。

そして、圧倒的な智慧の力で、事物の本性を知り尽くして無明の闇を完全に取り払うことができれば、渇愛を根絶し、執着を完全に捨て去ることができるはずです。

しかし、それは、ちょっと頭で考えたくらいでは凡そ不可能だと思います。

「(頭では)わかっちゃいるけどやめられない」のは、実は、「本当にわかっちゃいない」ということに他ならないでしょう。

そこで、ブッダが説かれたダンマに少しでも心惹かれたならば、みな、あすかさんと同様、「(頭ではわかっちゃいるけど)やめられない」から、「(本当にわかったから)やっぱりやめよう」と変わっていけるように頑張ってみるべきだと思います。
そのための唯一完全な処方箋はブッダが用意して下さっていますので、あとは、良く法を聞いて、戒・定・慧の実践に勤しむだけでよいわけですから。

皆様が智慧の光で満たされますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
こころざし
2016年01月17日 06:52
私事ですが、これまでの人生で好きなものに猛進して多大な時間・お金等を使いました。やればやる程・・な訳ですが、何時か飽きるか・行き詰まるかでやめて、また違う「好きなもの」を探す事を繰り返していました。
そのような実体験から、そのような生き方は賢くないと学んでいます。
賢い生き方が出来るように、愚かな事が分かり・それをしないように、智慧が付くように精進したいです。