若くとも ブッダの教え 行えば 雲を離れた 月のようです(382)

○子供のためのダンマパダ。
・・・
子供でも
ブッダの教えを守る子は
多くの大人を
感心させる。
・・・
3・11の津波では
一人の少女が、
始めに逃げて、
多くの大人を助けました。


○パーリ語原文と訳語

ヨー   ハウェー  ダハロー  ビック
Yo     have    daharo   bhikkhu,
その人は  実に   年若い   比丘

ユンジャティ  ブッダサーサネー
yuñjati     buddhasāsane;
努力する    ブッダの教えを

ソー  マン   ローカン  パバーセーティ
So’  maṃ   lokaṃ    pabhāseti,
彼は この    世間を   明るくする

アッバー  ムットーワ     チャンディマー
abbhā    muttova      candimā.
雲から   離れた ように   月



その人は実に年若い比丘
ブッダの教えを努力する
彼は雲から離れた月ように
この世間を明るくする


○意訳
年が若くとも
ブッダの教えを実践する比丘は
雲を離れた月のように
世の中を明るくする


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
2008年11月
*若くともブッダの教え行えば雲を離れた月のようです
http://76263383.at.webry.info/200811/article_18.html

2009年9月
* 若くともブッダの教え行えば雲を離れた月のようです
http://76263383.at.webry.info/200909/article_24.html


○一口メモ
今回の詩と3行目と4行目が同じ詩が、ダンマパダには3つあります。

 昔は放逸であっても、後で不放逸である人は
 雲をはなれた月のように、世の中を明るくする(172番)
http://76263383.at.webry.info/201208/article_21.html

 悪行の結果を善行で止めた人は
 雲をはなれた月のように、世の中を明るくする(173番)
http://76263383.at.webry.info/201208/article_22.html

 そして、今回の382番の詩です。実は173番の詩からこのブログから始めたので、少しなつかしいのですが、この「世の中を明るくする」とはどういう意味でしょうか?

 このブログのタイトルにあるように、私は「困った時はダンマパダ」を思い浮かべるのです。難問の答えは必ずダンマパダから探せます。「世の中を明るくする」を理解するためには先ず世の中が暗いという認識が必要です。11月17日に引用した146番の詩で、釈尊は「我々は暗黒(無明)で覆われている」と指摘しています。さらに、174番で「世界は盲目の生命だ(この世の中は暗黒である)、よく観察する人が少ない」と指摘しています。

 今日の世の中や自分自身をよく観察すると、自分の望んでいることと、逆の結果になるような行ないをしていることに気がつかされるのです。よく考えれば愚かとしかいえないのです。でもほとんどの人間はそのことに気づいていません。この見解に反論したい人は、悩みや苦しみの原因が自分の欲望であることを知って、欲望に対する執着を捨てようとしているかどうか観察して下さい。執着は捨てられないでいるどころか、必死にしがみ付いていることが分かると思うのです。

 172番の「不放逸である人」は無明から離れ、執着を捨てる人なのです。173番の「悪行の結果を善行で止めた人」は「欲、怒り、無明」をなくした人なのです。今回の382番の「ブッダの教えを実践する比丘」は悟りを開く人なのです。これらの人々は、自分の無明を捨て、光明を得た人なのです。ですから、他の人々の進むべき道を指し示すことが出来るのです。このことを「世の中を明るくする」というのです。

 「年が若くとも」とありますが、これは若くなくとも、年老いていても、「ブッダの教えを実践する」人は「雲を離れた月のように、世の中を明るくする」ことが出来るのです。私は既に64歳ですが、これからも、「ブッダの教えを実践する」と思っています。

この記事は私が64歳の時書いたものです。現在私は69歳です。この決意は今も変わりません。


若くとも ブッダの教え 行えば 雲を離れた 月のようです(382)


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~お知らせ~~~~~

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。
朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。
但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。
変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。
詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

カエルくん
2013年02月09日 05:57
おはようございます。
こうして家にいながらにして、お釈迦様の教えに触れることのできること、感謝しています。ありがとうございます。

年取った両親のお世話もあるし、仕事もあるし、と色々なことを言い訳にして家から出ずにいますが、お釈迦様の教えを実践することは継続しようと思います。
cho
2013年02月09日 09:40
ワンギーサ師
こんにちは、いつもお世話になっております。
体調が少しは回復されたということで安心いたしました。
まだまだ寒い日が続きそうですので、どうぞご自愛ください。

ブログを毎日更新されていること、みなさんがそれを読んでお釈迦様の教えを実践するべく励まれていること、善いことですね。

それぞれが「雲を離れた月のように」輝き照らすよう、僕も頑張ります。

では失礼いたします。
お幸せでありますように
あすか
2013年02月09日 11:37
ロウソクの灯りは分けても減るどころか
逆に倍の明るさになります。
まわりも明るくするような人になれたら。
今日も明るくがんばります。^^
SRKWブッダ
2014年08月27日 00:45
修行者は、どの年代であっても覚れるか? という問いはデリケートな問いである。

先ず、子供が覚れないのは明らかである。子供は、たとえ正しい行為を為しているとしても、その行為の正しさゆえにそれを為しているのではなく、そうせよと誰かに言われ、それを忠実に実行しているに過ぎないからである。

次に、老人では覚ることが難しいのは確かである。老人は、間違った行為をしていても誰もそれを指摘してくれず、直してあげようとは(若い世代からは)思われないからである。このため、老人は自分の間違った行為に気づくことがなく、もちろん正すこともない。その正す機会を、老人であるということによって予め放棄しているに等しい状況にある。この意味において、(老人に対する俗な)賞讃は汚泥のようなものだと知られることになる。

逆に言えば、たとえ子供であっても正しい行為の正しさを理解して自ら実行し、たとえ老人であっても自分の間違いを指摘してくれる友や師があり、それに素直に従うこころがあるならば、確かに覚ることが出来るであろう。

覚りの道には序列は存在しない。覚りの階梯があるだけである。このことを心底から理解し、実践するにやぶさかでないならば、そのような人はすでに覚りの近くにあると考えて大過ないであろう。この限りにおいて、どの年代であっても覚り得ると言ってよいであろう。

***
こころざし
2016年01月28日 06:00
無明で生きているうちは光は当たりにくいように思います。
その無明に気が付いて、智慧をつける事が出来れば、光が差すように思います。
ブッダの教えを実践し、暗闇の無明に光を入れれるように精進したいです。