渇愛の 激流涸らす 修行者は この世あの世を ともに捨て去る<3>

○少年少女のためのスッタニパータ3
・・・
眼から心に、耳から心に、
鼻から心に、舌から心に、
刺激が休みなく流れる。
そのたび心は欲しくなる。
そのたび苦悩が現れる。


3.第 蛇の章 3.

○スマナサーラ長老訳
暴流(ボル)を涸(カ)らし尽くして
渇愛を(根こそぎ)抜いてしまうならば、
その修行者は
蛇が脱皮するように
この世とかの世とをともに捨て去る。

○中村元先生訳
奔(ハシ)り流れる妄執の水流を涸らし尽して
余すことのない修行者は、
この世とかの世とをともに捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

○正田大観先生訳
激しく流れる〔渇愛の〕流れを干上がらせて、
渇愛〔の思い〕を残りなく断ち切った者
――その比丘は、此岸と彼岸を捨てる
――蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


○パーリ語原文
ヨー タンハームダッチダー アセーサン
Yo   taṇhamudacchidā  asesaṃ,
者は  渇愛を絶滅した   余すところなく

サリタン シーガササラン ヴィソーサイトゥヴァー
saritaṃ  sīghasaraṃ  visosayitvā;
流れ    早い流れを   干上がらせて

ソー ビック ジャハーティ オーラパーラン
So   bhikkhu   jahāti   orapāraṃ,
その  比丘は   捨てる  この世あの世を

ウラゴー イジンナミワッタチャン プラーナン
urago   jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.
蛇が 老化した皮を    古い 


○一口メモ
今回の偈のテーマはパーリ語ではタンハーです。日本語の仏教用語としては渇愛と訳されます。渇愛の意味は喉が渇いた人が水を求めるように、欲望の対象を求める心の働きです。中村先生はタンハーをいつでも妄執と訳されています。理由は分かりませんが、なるべく仏教用語は使わないようにされたのかもしれません。後半の二行は昨日とまったく同じです。

その渇愛です。ダンマパダ第24渇愛の章の詩で学びました。

334 気づきなく 果実求める 猿のよう 渇愛増やせば 輪廻続ける
335 執着の 原因である 渇愛に 打ち負かされて 憂いが増える
336 世の中の 制止しがたい 渇愛に 打ち勝つならば 憂いが落ちる
337 草の根を 掘り起こして 枯らすように 渇愛抜いて 幸福であれ
338 渇愛の 根の根絶が ない限り この苦しみは また現われる
339 渇愛は 三十六の 流れなり その激流は 彼を押し流す
340 渇愛は どんなところでも 芽を出して 繁茂するから 根から切り取れ
341 人々は 愛に流され 依存する 快を求めて 再度生まれる
342 渇愛に 捕まった人は 震えてる 震えながらも 苦悩続ける
343 渇愛に 捕まった人は 震えてる 渇愛捨てて 苦悩を止めよ

この詩では渇愛を激流に例えています。ダンマパダ339番で、渇愛は36の激流だと言っています。ちなみに36の激流は次の通りです。

渇愛には三種類あります。
1.愛欲 : 色、声、香、味、触の五欲に対する渇愛(欲しい欲しいという思い)
2.有愛 : 生存に対する渇愛(生きたいという思い)
3.無有愛 : 虚無への渇愛(破壊したいという思い)
眼において上記の三種類の渇愛があります。同様に、鼻、耳、舌、身、意にそれぞれ三種類ありますから十八種類の渇愛があります。渇愛の対象として、色、声、香、味、触、法で渇愛が分類されますから、ここでも十八種類の渇愛があります。以上により、十八に十八を加えて三十六の渇愛があるというわけです。これらの多数の渇愛はすべて快楽を求めて流れ、執着になるのです。そして苦しみを作り、輪廻の原因になるのです。

この渇愛の激流を、余すところなく、干上がらせるということは大変なことです。だからこそ、それをやり遂げた修行者は、この世とあの世への期待、執着をすべてすて、悟ることができるのです。


渇愛の 激流涸らす 修行者は この世あの世を ともに捨て去る<3>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~お知らせ~~~~~

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。
朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。
但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。
変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。
詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

時麿
2013年04月03日 06:29
日常は雑多な刺激を受ける場です。その刺激に対して欲を抱かないようにする…大変、難しいです。
しかし、「これは欲だ」と気付き、その欲を捨てていくことを日々のなかで行っていきます。欲に流されつつ、引き戻す。今はその繰り返しの毎日です。
あすか
2013年04月03日 10:50
日々刺激による渇愛に苦しみ、
それなのに刺激を求め、
心とはなかなか厄介なものです。
表面だけでなく根こそぎという点、
なるほど、ですね。
カエルくん
2013年04月03日 12:25
こんにちは。
暴流も、奔り流れるも、激しい流れも、全て、渇愛の激しさを表現しているのですね。
この流れを渡りきるのは至難のわざなのだと思います。
でもあきらめずに、一歩ずつ。
ささ
2013年04月03日 22:41
暴流を涸らし尽くすという旗は掲げておいたまま、今自分に出来る作戦をその都度遂行するのみだと感じました。
まず手放しやすいものから先に捨てていくよう努め、なかなか手放しにくいものは段階的に少しずつ捨てる練習を繰り返す。
とても一筋縄ではいきませんが、繰り返すことで少しずつ薄まっていくことを目指したいと思います。
てくてく
2013年04月03日 23:18
こんばんわ。新しいブログが益々のご発展ご活躍をなさいますようにと願いを込めて、慎んでお祝い申し上げます。
生きとし生けるものたちが幸せでありますように。
さて、今日の一口メモで、どうしても疑問に感じてしまうことがあります。
眼において三種類の渇愛がある…とありますが、どのようにしてあるのでしょうか?
1日悩みましたが、どうしても疑問が解けません…。
難しいです…。

生きとし生けるものたちが幸せでありますように。

ワンギーサ
2013年04月04日 07:53
てくてくさん、おはようございます。
お祝いの言葉ありがとうございます。

「眼において三種類の渇愛がある…とありますが、どのようにしてあるのでしょうか?」と言う質問にお答えします。
回答:文字どおりの意味は、眼における愛欲、眼における有愛、眼における無有愛です。
眼における愛欲は何かを見て欲しいという思いです。眼における有愛は何かを見て、私が見ているとなります。その私は死にたくない、何としても生きたいという思いが現れているのです。眼における無有愛は少し難しい思いです。何かを見た時に、思いが叶わなかった時は壊してしまいたいという思いです。有愛、特に無有愛は気づきにくい感じですから、気づきにくいかもしれませんが、心を注意深く観察すればわかるようになります。

てくてく
2013年04月05日 08:12
おはようございます。
この度は、詳しいご解説をくださりありがとうございます。
まだまだ頭で考えており、分からないままです。
考えないように気を付けて観察を続けます。
生きとし生けるものたちが幸せでありますように。
こころざし
2016年02月14日 06:28
渇愛がない方が生きやすいと実感して欲を減らすようにして、感じたものをその感じたで止めるサティをしている方が、その欲が出る思考・妄想に繋がらないと実感して、実践するようにしています。
そうすると自我は捏造したもの、と感じる時があります。それが出来ている時は、渇愛は出ない印象を受けています。もっとそれを進めて参りたいです。