存在に 実はないと知る 修行者は この世あの世を ともに捨て去る<5>

○少年少女のためのスッタニパータ5
・・・
ないもの探しをしたら
どうなるか?
ないものは見つからない。
だからおわらない。


5.第1 蛇の章 5 

○スマナサーラ長老訳
無花果(イチジク)の花を探す人が何も見付けられないように
存在において意義(実体)を
見出せないことを発見した修行者は
蛇が脱皮するように
この世とかの世とをともに捨て去る。

○中村元先生訳
無花果の樹の林の中に花を探し求めて得られないように、
諸々の生存状態のうちに堅固なものを見いださない修行者は、
この世とかの世とをともに捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

○正田大観先生訳
無花果の木々に花を探し求める者が〔花を得ない〕ように、
諸々の〔迷いの〕生存(有)のうちに真髄(実:真実・本質)に到達しなかった者
(迷いの生存を真実と認めなかった者)
――その比丘は、此岸と彼岸を捨てる
――蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


○パーリ語原文
ヨー ナッジャガマー バウェース      サーラン
Yo   nājjhagamā   bhavesu       sāraṃ,
者は  見出せない  諸々の存在において  堅実なものを

ウィチナン プッパミワー ウドゥンバレース
vicinaṃ   pupphamiva   udumbaresu;
探す    花を ように  無花果において

ソー   ビック ジャーティ オラパーラン
So    bhikkhu   jahāti   orapāraṃ,
その  比丘は    捨てる  この世あの世を

ウラゴー ジンナミワッタチャン プラーナン
urago   jiṇṇamivattacaṃ   purāṇaṃ.
蛇が   古い皮を      古い


○一口メモ
この偈のキーワードはサーラン(堅実なものを)です。サーラはパーリ語辞書に、堅実、真実、真髄、核、核心、樹心、心材、堅材などの訳語が掲載されています。

ダンマパダ11番、12番にサーラ及びサーラの反対語アサーラがキーワードになった詩がありました。
11 偽りを 真実と見なし 真実を 偽りとすれば 真理わからぬ
12 真実を 真実と知り 偽りを 偽りすれば 真理がわかる
11 http://76263383.at.webry.info/201203/article_11.html
12 http://76263383.at.webry.info/201203/article_12.html
この時の真実はサーラという言葉が使われており、偽りにはアサーラという言葉が使われているのです。

さて、この偈にもどりますが、「もろもろの生存において」とは、「生きていることにおいて」ということです。私たちが生存しているとは、生きていることだからです。生きていることにおいて堅実なものが何なのでしょうか? 辞書の訳語を入れ替えて考えてみましょう。生きていることにおいて真実なものはなんでしょうか?
生きていることにおいて真髄は何でしょうか?

実は、これを考えたり、調べることは非常に大切なことですが、ほとんどの人々はこの問題を考えたり、調べたりしないのです。ただ生きているだけなのです。例えば勉強しなさいと言われても、なぜ勉強するのかを考えないのです。ただ感情や本能のままに生きていますから、悩み苦しんでいるのです。例えば、何かを欲しいと思った時、その時は欲しいものはないのですから不満足です。不満足は苦しみなのです。欲しいものが手に入ったとしても、それは変化して、壊れてなくなります。それは苦しみになるのです。欲があることは苦しみなのです。
それを調べないのです。

ブッダはこの問題を真剣に考え調べました。その結果、生きることにおいて、堅実なもの、真実なもの、真髄などはないと発見しました。生きることは絶えず変化しており、変わらない堅実なもの、変わらない真実なもの、変わらない真髄ないと悟ったのです。それ以前は、人類は生きることにおいて、何か堅実なもの、真実なもの、真髄などがあると想定していたのです。

先ず、始めにあると想定しているものは「私」なのです。「私」は確実にあると私は思っています。確実にある私は絶えず老化し、病気して、いずれは死ぬのです。ですから死は絶えず私を苦しめているのです。想定外の事柄が常に起こっているのですから。変わらない確実なものではないからです。しかし、確実なものがないことを悟り、受け入れている修行者は、死は必然であり、悩む苦しむものでないことを悟っているのです。

「いちじく」は漢字で書くと無花果と書くように実はなりますが花はないのです。ですから、生きることにおいて変わらない堅実なもの、真実なもの、真髄などを探そうとすることは、無花果の花を探すようなものだと、この偈では例えているのです。そのことを悟った修行者は、生きることに執着はありませんから、この世とあの世を蛇が古い老化した皮を脱ぐように、捨てるのです。

余計なことを書くと、混乱する方もおられるかもしれませんが、一言付け加えておきます。それはダンマパダ11番、12番におけるサーラ(真実)はあると書かれていますが、それは不堅実なものであり、結論だけ言えば、無常・苦・無我なのです。


存在に 実はないと知る 修行者は この世あの世を ともに捨て去る<5>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~お知らせ~~~~~

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。
朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。
但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。
変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。
詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

カエルくん
2013年04月05日 06:58
おはようございます。
十代のころ、絶対に変わらない何かを探して右往左往していたことを思い出しました。変わらないものはないのだ、と気付いたときは恐怖感でいっぱいになりました。何かにしがみつきたい、救われたいという気持ちから、一神教に憧れたりしました。
仏教に出会えたのは本当にラッキーです。
あとは「分かっていても」捨てられない、変わらない自分がある、という錯覚。これを手放すべく、こつこつと頑張ります。
あすか
2013年04月05日 12:05
前提が違っているのでは
いくら探しても仕方ありません。
何か絶対なものが、と妄想するのでなく、
現実を受け入れなくてはいけませんね。

ささ
2013年04月06日 08:35
真実といえば、その単語の意味をただ抱きがちですが、真実や核心、真髄について生きることに対してはそれがない、真実は苦・無常・無我だという双方向からの意味を考えさせられました。
どういう意味だろう…と、分からないなりに何度も解説を繰り返し読むと気づく事があります。お釈迦さまの教えは深いなと学びながら喜びを感じずにはいられません。
いつも、ありがとうございます。
世人の考えの可否
2014年08月16日 21:33
世人は、目の前に実がなっているのだから、その前には花が咲いていたのだろうと当たり前のように考える。

世人は、我という現実の認識があるのだから、その根底には堅固な自性の根拠があるのだろうと考える。

しかしながら、無花果のようなそもそも花のない植物があるように、この世の生存状態には実は堅固な自性の根拠は存在していない。それは泡沫のようなものである。

世人は、自分の世俗的な考えの延長上に覚りがあると考える。しかしながら、覚りはこの世を超えた世界(=法界)から出現する法の句(善知識)によって起こることがらであり、これは世俗的ないかなる説にも随順しない。ゆえに、法(ダルマ)と名づく。

理法(ことわり)が正しく説かれて初めてこの真理が明らかとなるが、この真理を理解し、信じ、実践する人は少ない。それで、多くの人々(衆生)は、無花果に花を求めるような空しい人生を送るのである。

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こころざし
2016年02月15日 05:38
清らかな魂があったり、自分は尊いもの・・等と以前自己啓発系?で教えて頂きました。そうか!と錯覚し、ないものをあると思って変な安心感を得た頃があります。無知だったです。
常に無常で変化し、苦であり、無我であると教えて頂いて、そのように観察するとまさにその通りと思いました。
その理解を心的に出来るように深めたいです。