賢明な 友を得るなら 何よりも 共に学んで 共に歩こう<45>

○少年少女のためのスッタニパータ45
・・・
友だちや動物に親切で、
うそをつかない友ならば、
大切な友として、
仲良くするように。

(ダンマパダ328番の子供のためのダンマパダと同じ)


45.第1 蛇の章 3.犀の角経 11

○毎田周一先生訳
若し信の人 敬虔な人 智慧の人なる
明敏な友を得たならば
どんな危難をものりこえて 彼と共に
喜びに充ちて思ひも深く歩いてゆこう


○中村元先生訳
もしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい
明敏な同伴者>を得たならば、
あらゆる危難にうち勝ち、
こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。


○正田大観先生訳
もし、賢明なる道友を得るなら、
共に行じおこなう善き住者である慧者を〔得るなら〕、
一切の危難を征服して、
わが意を得た気づき(念)の者となり、彼とともに、歩むもの。


○パーリ語原文
サチェー    ラベータ    ニパカン     サハーヤン
Sace     labhetha   nipakaṃ   sahāyaṃ,
もし     得たならば  賢明な    友を

サディン   チャラン   サードゥウィハーリディーラン
saddhiṃ   caraṃ     sādhuvihāridhīraṃ;
共に     行う       正しく住む慧者を

アビブッヤ    サッバーニ    パリッサヤーニ
Abhibhuyya   sabbāni       parissayāni,
征服して     一切の       困難を

チャレッヤ   テーナッタマノー    サティーマー
Careyya     tenattamano      satīmā.
行こう        彼と共に 心にかなう    念ある人


○一口メモ
昨日述べましたように、今回の35番と第36番の偈で、「犀の角のように一人歩く」という課題を考え直すことになります。

今回の偈は「犀の角経」の中では唯一、「一人で歩く」ではなく、「共に歩く」になっているのです。仏教は本来「一人歩く」を推奨しているわけではありません。むしろ善友と親しく付き合うことを進めているのです。しかし、善友というべき人がおられない状況では、悪友と付き合うのではなく、「一人で歩く」というのです。

その問題を今回と次回で語ることになります。実は、35番と36番の偈はそれぞれダンマパダの328番と329番と対応していて、パーリ語の原文も同じなのです。参考のために、要約短歌とその記事のアドレスを記載しておきます。

賢明な 友を得るなら それにより 心にかなう 生き方できる(328)
賢明な 友が得られぬ その時は 独りで歩め 孤象のように(329)
328,329 http://76263383.at.webry.info/201212/article_29.html

その偈が置かれている文脈が異なりますから、解釈の立場が異なります。しかし、同じ偈ですから、基本は同じです。

一行目の「賢明は友」とはどのような友でしょうか? その説明は二行目に書かれています。共に修行できる、正しく生活している智慧のある人です。そのような人は賢明な友です。

ではなぜそのような賢明な友を得られたら、すべての困難に打ち勝って、今まで繰り返し「一人で歩く」と述べてきたのに、そのように言うのでしょうか?

そのことについて、上記の記事に解説してありますが、簡単に要約しておきます。

人間はそれぞれ自分の見解に基づいて生きています。しかし、そうすると不幸になるのです。それらの見解は幸福を求めながらも、不幸になる生き方を選択する見解だからです。それらは自分の欲望を満足させようとする生き方だからです。自分の欲望が自分を不幸にするのだと人間は考えられません。それはブッダの智慧を学んだ人々だけが解かることなのです。ブッダの智慧を教えられる人が善友なのです。ですから、善友なしには人間は幸福になれないのです。善友すなわち賢明な友を得られたならば、あらゆる困難に打ち勝って、共に学び、共に歩いた方がよいのです。


賢明な 友を得るなら 何よりも 共に学んで 共に歩こう<45>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。
朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。
但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。
変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。
詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。
そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。御支援をお願い致します。

この記事へのコメント

櫻井由紀
2013年05月15日 10:58
私には未だ
共に歩くことの出来る善友がいません。
勿論、「良い人達」は沢山いますし、
道で会えば「楽しい(?)会話」もあり
何の問題も無く、淡々とした人間関係と
日常生活がありますが、では
「仏教的善友の条件を満たしている人」
は日常生活範囲内にいるかな?と
考えてみると、中々難しいのが現実です。
ですからゴータミー精舎に行って
そこでお釈迦様の教えを学んでいる
皆さんにお会いして、お話をさせて頂き
交流を深めさせていただくのが
何よりも貴重で、
その場にいると本当に
何か暖かい、ふんわりとした、
優しい、でも同時に凛としたものが
心に溶け込んでくるのです。
物理的な距離(自宅が千葉県)が
ちょっとした足枷で、
毎日ゴータミー精舎には行けないですが
瞑想会や食事のお布施、勉強会など
可能な限り伺わせていただこうと思います。

ワンギーサ先生、諸先生方、
仏教を学ぶ学生の皆様、
色々お世話になります。
どうぞよろしくお願い致します。
生きとし生けるものが幸せでありますように。

ワンギーサ
2013年05月15日 12:32
櫻井由紀さん、今日は。
今日のあなたのコメントに「共に歩くことの出来る善友がいません。」と書いていますが、ブッダが最高・最善の善友なのです。また、スマナサーラ長老をはじめテーラワーダ仏教の比丘たちは善友と考えてよいと思います。ですから、あなたも彼らを善友と考えてください。
櫻井由紀
2013年05月15日 17:06
ワンギーサ先生、
この上無い適切な
御指摘、ご指導、ありがとうございます。
まるで後頭部をハンマーで打たれた位の衝撃で
己の盲目的な愚かさに驚き
目眩までしてきて
この究極的な頭の悪さにあきれてしまいました。
穴があったら入りたい。恥ずかしいです。
この悪い頭を鍛え直そうと努力いたします。
こういった御指摘、ご指導をいただける事が
何よりも最上の幸せです。
こんな人間ですが
今後ともよろしくお願い致します。
ありがとうございます。
てくてく
2013年05月15日 22:25
こんばんわ。
てくてくは、ワンギーサさまの記事だけでは、内容が難しくて分からないことがあります。そのような時、いろいろな方々のコメントを読むと助けられ、勉強になります。
自分は、コメントで出会う方々も尊敬できる善友だと思いたいです。
そう、思っていても良いでしょうか。

生きとし生けるものたちが幸せでありますように。

静まり
2013年05月15日 23:25
ブッダとブッダの道を歩まれる方々と、
共に歩いてゆきたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。
てくてく
2013年05月17日 20:13
こんばんは。
先日の自分のコメントは、悪い心による誤った考えと気付きましたので、勝手ながら、改めさせてください。
善友は、”その御方の生き方をそのまま素直に真似すれば善く生きることに成る”。そういう方のことを、そう呼ぶのではないかと考えるようになりました。
そう考えると、自然とお釈迦様に出会うことになり、そのお弟子の方々に出会うことになると思います。

悪い心により考え、コメントしました誤りを懺悔し、お詫び申し上げます。

生きとし生けるものたちが幸せでりますように。



SRKWブッダ
2014年07月25日 16:52
もしもそなたが、賢明で気心の知れた友(知己)を得たならば、万障繰り合わせて、その意中の友とともに歩め。

***
こころざし
2016年02月28日 06:48
昨日ダンマサークル準備会の集いに参加しました。ご参加された皆さんは自分の欲的なものをメインにされておらず、お布施をされていたりで頭が下がりました。
不幸を招く見解・欲等々をすて、法友に学ばせて頂きながら、成長して参りたいです。