饒舌(ジョウゼツ)と 口論起こる 二人なら 危険を避けて 一人で歩く<49>

○少年少女のためのスッタニパータ49
・・・
無駄話から始まって、
喧嘩で終わる、
凡夫かな。
だから、一人で修行する。


49.第1 蛇の章 3.犀の角経 15

○毎田周一先生訳
そのように人と二人でゐると
自分の方が饒舌になり口喧しくなる
未来にさういふ危険が生じるのを見抜いて
犀の角のやうにただ一人歩いてゆかう


○中村元先生訳
このように二人でいるならば、
われに饒舌といさかいとが起るであろう。
未来にこの恐れのあることを察して、
犀の角のようにただ独り歩め。


○正田大観先生訳
このように、第二者(連れの者)と共にあるなら、
わたしには、雑談の言葉、あるいは、叱責〔の言葉〕が存するであろう。
この恐怖を未来に見る者は、
犀の角のように、独り、歩むもの。


○パーリ語原文
エーワン   ドゥティイェーナ   サハー  ママッサ
Evaṃ      dutiyena        sahā    mamassa,
このように   二人に        共に     私に


ワーチャービラーポー   アビサッジャナー   ワー

aācābhilāpo         abhisajjanā      vā;
雑談の言葉         不機嫌         或は

エータン   バヤン    アーヤティン   ペッカマーノ
Etaṃ     bhayaṃ    āyatiṃ      pekkhamāno,
この     恐怖を     未来に      見る者は

エーコー   チャレー    カッガウィサーナカッポー
eko       care      khaggavisāṇakappo.
一人で    行くように  犀の角のように


○一口メモ
昨日の偈は、二つの金の腕輪のぶつかり相について述べられていましたが、その意味を今日の偈で二人の人間がいるときの状況についての譬えであることが、具体的に述べられています。

二人の人間がいれば、おしゃべりが始まります。人間は結構おしゃべりが好きなのです。人間ばかりではありません。いろいろ生命は何等かの形でコミュニケーションをとっています。生命は他の生命に依存して生きていますから、一人でいることが不安なのです。他の生命との関係を確認するためにも、いつも他の生命とコミュニケーションをとっているのです。内容がなくてもいいのです。相手がいることが分かればそれでいいのです。しかし、人間の場合には自我が発達しているので、一人ひとり異なる見解や意見を持っています。そのため内容のない無駄話は意見の対立になり、いさかいになるのです。そのような危険性を避けて、賢者は犀の角のように一人で歩くのです。

なぜ、無駄話がいけないのか、いさかいにつながるからいけないということだけでなく、無駄話は生命の浪費なのです。そのことについて、ダンマパダ83番のブログ記事でも述べました。それも是非参照してください。

善人は 楽しみ求め しゃべらない 賢い人は 動揺しない(83)
http://76263383.at.webry.info/201205/article_28.html


饒舌(ジョウゼツ)と 口論起こる 二人なら 危険を避けて 一人で歩く<49>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎5月27日(月)から6月2日(日)まで、ワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するため、ゴータミー精舎における朝晩の自主瞑想会はお休みいたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

静まり
2013年05月19日 14:31
私は気が抜けると普通に話しかけたつもりでも、相手にとっては文句になって怒らせてしまい、話しかけたことを後悔することがあります(私の相手に対する不安・寂しさ・恐れや依存心が大きいから? 相手も語気が強いだけで、もしかしたら怒っていない? 後悔するのは余計な妄想?)。

なるべく慈悲の心で「不貪・不瞋・不痴」で役立つことを話したいと思いますが、今その技術がないなら余計なお喋りをしようとしないで、心穏やかに安らかに「聖黙」でいようと思いました。

慈悲の瞑想をして、慈しみの「役立つ言葉」も少しずつ学んで実践できたらいいと思いました。
池崎中彦
2013年05月20日 03:34
ワンギーサ様、おはようございます。
昨日はお疲れ様でした。

長老の言葉を借りるならば
言葉は`放射性廃棄物`扱いに細心の注意を払わないと
人間関係において(あるいは人間関係だけに限定せず)
とんでもない地雷を抱えることにもなるかも知れません。
私はどっちかというと人見知りするタイプなのに
ついつい余計なことをベラベラと喋ってしまいます。
それは己の寂しさからくるものだと自己分析しております。
付け加えるならば
対人において虚勢を張っている側面があります。

私はまだまだ世俗側の人間なので
お喋りは、円滑かつ豊潤な人間関係を築くための
必須ツールだと心得てます。
無くては生きていけないし、物足りなく思います。
ですが、何処であってもお喋りする際には
相手を傷つけないよう
細心の注意が必要だとも感じております。
私には、これがまだまだ足りてません。
このウィークポイント、ヴィパッサナー修行によって改善できたら
良いな、と思ってます。

こんな私にも
いつかは綺語は意味のないもの、時間の無駄、だということが
理解出来るかも知れませんが
今のところは・・・という感じであります。


本日もよろしくお願いいたします。
こころざし
2016年02月29日 07:30
私事ですが、以前他宗教をしていたがそれが違うと思い、こちらに来ました。ですがこちらを肯定すると以前していた他宗教事を否定されるみたいで嫌なんです・・みたいな見解で話を延々とされる方がいました。困りましたが、その後接点がなくなる流れになりました。
それぞれの方の見解に元づいた押し付け合い?みたいな事をするのではなく、折角話し合いの機会が得られるのであれば、教えて頂いた事を元により成長する為に、みたいな話をして参りたいです。