議論超え 真理極めた 辟支仏(ビャクシブツ) 指導されずに 一人で歩く<55>

○少年少女のためのスッタニパータ55
・・・
三人寄れば文殊の知恵
とは世間の知恵で、
真理の智慧は
一人で光る。


55.第1 蛇の章 3.犀の角経 21

○毎田周一先生訳
誤った議論を戦わすことを避け
道に達して 道を極めて
「私に智慧が生じた もはや他人には導かれない」と
犀の角のようにただ一人歩いてゆかう


○中村元先生訳
相争う哲学的見解を越え、
(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、
「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、
犀の角のようにただ独り歩め。


○正田大観先生訳
諸々の見解の対立を超克し、
〔解脱に至る〕決定[けつじょう](正しい実践方法)を得て、道を獲得した者は、
「〔私は〕知恵(智)が生起した者として〔世に〕存している。他によって導かれることはない」と〕、
犀の角のように、独り、歩むもの。


○パーリ語原文
ディッティウィスーカーニ   ウパーティワットー
Diṭṭhīvisūkāni           upātivatto,
見解の争いを           超越して

パットー   ニヤーマン    パティラッダアッゴー
Patto     niyāmaṃ     paṭiladdhamaggo;
得て   決定を  道を獲得した人は

ウッパンナニャーノーンヒ    アナンニャネッヨー
Uppannañāṇomhi        anaññaneyyo,
私には智慧が生じた    他の人には導かれない

エーコー   チャレー    カッガウィサーナカッポー
eko       care      khaggavisāṇakappo.
一人で    行こう     犀の角のように


○一口メモ
昨日の偈で述べられた「集会を楽しむ人」というのは、議論をすることになり、議論を楽しむ人なのです。そのように議論をする人は解脱を体験できないということが今回の偈で述べられているのです。

解脱を体験できないとは、真理に到達できないということです。つまり議論では真理に到達できないということです。議論とは見解と見解の対立です。どちらかの見解も真理ではないのです。どのような見解もそれと対立する見解がありますから、見解は真理になりえないのです。

ですから、この偈では見解の対立を超越してと述べられているのです。見解の対立を超越すると、真理に到達するわけですが、それを決定(ケツジョウ)という言葉及び道という言葉で表現されています。

注釈書には、決定は、本性として悪趣に堕ちないことと、覚りの究極に達することに決定していること、あるいは正しいことの決定と呼ばれる第一の道という意味と述べられています。

その結果、「私は辟支仏(独覚仏)の覚りの智慧が生じている。他の人によってこれが真理ですよと導かれない」と宣言しておられるのです。

辟支仏(独覚仏)とは、他の指導なくして独自に解脱に達したお方であり、覚りの内容そのものについてはブッダやブッダのお弟子である阿羅漢と比べても遜色はないものの、ブッダのように自ら覚った内容である法を他に語り教えることはできないお方と言われています。

仏陀の覚りの宣言はダンマパダ353番にあります。
勝利して すべて知る者 捨てた者 自ら悟り 師匠はいない(353)
http://76263383.at.webry.info/201301/article_14.html


議論超え 真理極めた 辟支仏(ビャクシブツ) 指導されずに 一人で歩く<55>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎5月27日(月)から6月2日(日)まで、ワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するため、ゴータミー精舎における朝晩の自主瞑想会はお休みいたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

カエルくん
2013年05月25日 10:08
こんにちは。
道というものは自分の足で歩くしかないのだ、ということわ改めて思いました。
あっきん
2013年05月25日 11:39
おはようございます。
人は一人で生まれて、一人で死ぬものですね。
避けられる事でもなく誰もが通る道です。
仲間や家族に支えてもらいながらも、
その間どう歩むか。道しるべが仏道。
このプログを見て何気なく感じました。
kumetsu
2013年05月25日 14:35
「(見解と見解の対立である)議論では真理(四聖諦)に到達できない。」「見解は真理(四聖諦)になりえない。」
このご指摘は、正に仏教の真髄の一つにかかわる重要なものだと思います。

思考で成り立つ見解・理論によっては、その思考がどんなに素晴らしいものであったとしても、真理(四聖諦)を知り尽くすことはできない、と仏教は説いています。
すなわち、苦滅道(八聖道)の実践によって「真理(四聖諦・涅槃)を現実に体験して知り尽くす」ということと、思考の積み重ねである見解によって「これが真理ではないかと思い考える」こととは、決定的に違うのです。前者によって煩悩を滅尽することができますが、後者ではそれができないとされるからです。
戒・定・慧の修行実践によって培われる「智慧」と、思考の積み重ねによって見解・理論を作り出すこととは、頭の使い方が全く違います。これは、「仏教を学問的に勉強するのは良いことであるけれども、それだけでは足りない」とか、「瞑想するときは徹底的に思考を排除せよ」等と言われる所以でもあると思います。

ところが、私たち凡夫は、「無明」であるために、真理(四聖諦)を知ることがなく、知る方法(苦滅道諦)もわかりません。そのために仕方なく、手持ちの貪・瞋・痴という煩悩に則って思考することで何らかの見解・理論を作り出し、それを頼りにするしかない状態に陥っています。本当に真理(四聖諦)を知り尽くすことができたならば、もはや見解や理論を作るために思考する必要自体がなくなるでしょう。
このように、「見(解)」は<無明>を出発点として生じるものなので、「邪見」という煩悩の一種とされるのだ、と言ってもよいのではないでしょうか

生きとし生けるものが幸せでありますように
てくてく
2013年05月25日 14:37
こんにちは。
この頃は、気が付けば”一人歩む”ことを考えています。
体を単位に考えると、”一人”という表現に囚われそうになります。
心を磨き上げて、その意図を実感したいです。

生きとし生けるものたちが幸せでありますように。

こころざし
2016年03月02日 09:42
真理を長老に教えて頂けていますので、それを真摯に学び・実践するつもりです。その内容の事でもし議論するような事態になったとしたら、それは損にしかならないと思います。
損にしかならない事は避けて、そして必要な事を実行して参りたいです。