欲望は 束縛であり 苦しみだ 釣り針と知り 一人で歩く<61>

○少年少女のためのスッタニパータ61
・・・
愚かな魚は
エサに釣針がついていても
パクリと食べる。
賢い魚は釣針があれば
食いつかない。

61.第1 蛇の章 3.犀の角経 27

○毎田周一先生訳
「これは束縛であり ここには幸せも
楽しさも少なく それにもましてここには苦しみがあり
これは魚を釣る針である」と明敏に見抜く人となって
犀の角のように一人歩いてゆかう


○中村元先生訳
「これは執著である。ここは楽しみは少し、
快い味わいも少くて、苦しみが多い。
これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、
犀の角のようにただ独り歩め。


○正田大観先生訳
「これは、執着〔の対象〕である。ここに、幸福[さいわい]は小さい。
ここに、快楽[たのしみ]は少なく、苦痛[くるしみ]は、より一層のものである。
これは、〔人を誘惑する〕釣針である」と知って、思慧ある者は、
犀の角のように、独り、歩むもの。


○パーリ語原文
サンゴー   エーソー   パリッタメッタ    ソーキャン
Saṅgo    eso    parittamettha   sokhyaṃ,
執着      これは   少ない ここに    幸福は

アッパッサードー   ドゥッカメッタ    ビッヨー   
appassādo      dukkhamettha   bhiyyo;
楽しみ少ない    苦しみ  ここに   さらに多い


ガロー   エーソー   イティ   ニャトゥワー   ムティーマー
Gaḷo     eso       iti     ñatvā       mutīmā ,
釣り針   これは     と     知って      慧者は

エーコー   チャレー   カッガウィサーナカッポー
eko      care      khaggavisāṇakappo.
一人     行こう     犀の角のように


○一口メモ
この偈の「これ」と「ここに」は欲望のことです。ですから、欲望は執着であり、欲望には幸福は少なく、楽しみは少ないということです。それどころか欲望には苦しみが多いと述べられています。

欲望は、魚にとってのエサに見せかけた釣り針であると述べられています。私たちに人間は、魚が危険なエサにだまされるように、欲望にだまされるのです。そこに幸福や楽しみがあるように見えるのです。

魚の中にも釣竿のエサには食いつかない賢い魚がいます。人間ならば賢い魚に負けないように、欲望の危険を見抜くべきですが、ほとんどの人間はだまされています。これを、無知、無明といいます。

生命にとって欲望とは、苦しみから逃れようとして現れるものなのです。お腹がすくという苦から逃れるために、食べたいという欲望があらわれます。ですから、この欲望が苦の原因であることには気が付けないのです。

ですから、世間のこの苦の解決方法は、何としてでも食べ物を手に入れようとします。そしてよりたくさん欲しいと思うようになり、さらにより美味しいものを欲しいと思うようになります。その過程で手に入らなければ、苦痛になり、少しであれば不満になるのです。まずいものであれば怒りになります。このように欲望のせいで不幸になり、苦しみが増すのです。

では仏教では、お腹がすいたという苦をいかに解決するのでしょうか? 仏教の解決方法は小欲知足です。それならば、小欲ですから苦になりません。知足ですから現状に満足できるのです。

生命の中で、ブッダが初めて、欲望のからくりを洞察されたのです。それほど難しい問題だったのですが、ブッダの御蔭で、そのからくりが明らかにされました。今ではそれをしっかり学んで実践すればよいだけではありますが、欲望と戦うことは非常に難しい課題なのです。欲望を満たすことが本能になっているからです。仏道修行とは本能と戦うことなのです。


欲望は 束縛であり 苦しみだ 釣り針と知り 一人で歩く<61>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎5月27日(月)から6月2日(日)まで、ワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するため、ゴータミー精舎における朝晩の自主瞑想会はお休みいたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。御支援をお願い致します。

この記事へのコメント

櫻井由紀
2013年05月31日 11:44
俗世間の多くの人々は
自ら真理の欠乏を感じていないから
それを欲求する筈も無く、
真理を学ぶ楽しみを知らないから
いつも退屈で
退屈過ぎて
いつでも、常に妄想し
止め処なく湧き出す欲望の泉を
どうにかしようと
小さなバケツで汲み出したって
間に合わなくて
欲望の泉は後から後から
どんどん湧き出してきて
自ら作り出した泉に
自分が溺れてしまう。
こんなに小さくて
薄っぺらくて
安っぽく
簡単に手に入って
長持ちしないバケツなんか捨てちゃって
この滑稽で醜悪な状況から
はやく脱却し
欲望の源泉を涸らす努力をする事が
最高最上の修行ですね。
世間の甘美な幻影に惑わされないよう
気を付けます。
kumetus
2013年06月01日 00:13
「仏道修行とは本能と戦うことなのです」とは正に至言であります!

(1)仏道修行こそは、全生命が最終的に勝たなければならない真の戦いだと思います。

ただし、自分以外の一切衆生の中には、倒すべき敵は一人もいません。
私たち全生命にとって、本当の敵は自分自身の心の中の奥底の「本能(寺)」に根深く巣食っている諸煩悩なのです。
厄介なことに、煩悩という敵は圧倒的に強大です。なにしろ私たちは、無始なる過去から現在に至るまで、この諸煩悩にひたすら連戦連敗を強いられ、苦しみ続けてきたのです。

しかしながら、今回はこれまでと状況が違っています。なぜなら、一切生命にとって史上最高の師であられる「ブッダ」が、「ダンマ」という無敵の必勝法をひっさげ、最強のコーチ陣「サンガ」をも引き連れて颯爽と出現されたので、今でも私たちが真剣に望みさえすれば、本能=煩悩に打ち勝つ奇跡を可能とする至極のコーチングを施してもらえる環境が残されているからです。

ブッダが編み出された必勝法である「戒・定・慧」の三学とは、いわば貪軍・瞋軍・痴軍の三大軍で構成される超手強い煩悩軍団を全て撃滅するためのストラテジーです。
kumetsu
2013年06月01日 00:17
(2)すなわち、
①まず、戒律の遵守により行動・言動のフィールドでの煩悩軍の活動を制御して弱らせた上、心の領域まで後退させます。
②次に、心という主戦場においては、サマタ瞑想(止・定)によって煩悩軍団を一時的に仮死状態に追い込むと同時に、事物の本性をあるがままに観察するための集中力を養います。
③最後に、ヴィパッサナー(観・慧)によって、「智慧(聖道智)」という最終兵器を獲得し、これによって潜在化している煩悩軍団の最高司令官である「無明」にとどめを指し、その全軍を余すところなく殲滅する、というのが基本的な戦略です。

この戦いは壮絶を極めるものとなるかもしれませんが、決して、「生きるか死ぬか」の戦いではありません。そうではなく、「生と死のいずれに対しても終止符を打つ」ことによって生老病死をはじめとする苦しみの輪廻から解脱し、涅槃に達するために、避けて通れない戦いなのです。

それでも、あなたは苦を放置し続けますか?
それとも、仏法僧に帰依して、煩悩軍団に挑戦してみませんか?
それでは、いつやるの?

皆様に智慧の光が輝きますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
ささ
2013年06月01日 04:53
kumetsuさま。コメントに力を得た想いです。
いつもありがとうございます。

私に智慧が現れますように
生きとし生けるものに覚りの光が現れますように
てくてく
2013年06月01日 12:41
こんにちは。
瞑想に向かうとき、旅に出るような気持ちになります。
それは、こんな旅です。

瞑想は、一人旅
本能と戦う、一人旅
もう二度と生まれないために

生きとし生けるものたちが幸せでありますように。

こころざし
2016年03月04日 07:40
本文を拝見し、釣り針についた餌を食べて針が刺さり、釣り上げられるなんて、人間にそのまま当てはまるのか?と思いました。
ですが自分の振り返りをすると、まさにそのものでとハッとしました。過去に少し加入してしまったある団体は会員を増やす為に、その人の欲に訴える・針の着いた餌をまいていました。食べた方が無明ですと、針が刺さっている状態にも気が付かないかもと思います。
そのような愚かな状況に陥らないように・智慧をつけれるように、本能と戦って参りたいです。