生きものを 慈しむけど 子をもたず 仲間求めず 一人で歩く<35>

○少年少女のためのスッタニパータ35
・・・
友だちがほしいくせに、
なぜいじめるの?
両方やめたら、
友だちができるかも。


35.第1.蛇の章 3.犀の角経 1.

○毎田周一先生訳
一切の生きものに杖をふるはず
その一つをさえ悩ますことなく
子供や仲間を欲しがらないで
犀の角のやうにただ一人歩いてゆかう


○中村元先生訳
あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、
あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、
また子を欲するなかれ。況や朋友をや。
犀の角のようにただ独り歩め。


○正田大観先生訳
一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて、
彼らの誰ひとりでさえも害さずにいる者は、
子を求めぬもの。どうして、道友を〔求めよう〕。
犀の角のように、独り、歩むもの。


○パーリ語原文
サッベース  ブーテース   ニダーヤ  ダンダン
Sabbesu      bhūtesu       nidhāya    daṇḍaṃ,
一切の      生類にたいして   置いて    棒を

アウィヘータヤン   アンニャタランピ  テーサン
aviheṭhayaṃ     aññatarampi     tesaṃ;
害さない人      他のだれも      彼らの

ナ    プッタミッチェッヤ   クトー   サハーヤン
Na    puttamiccheyya    kuto    sahāyaṃ,
ない   子を望ま        どうして  仲間を

エコー    チャレー   カッガウィサーナカッポー
Eko      care      khaggavisāṇakappo.
一人で  行こう   犀の角のように


○一口メモ
今日から「犀の角経」が始まります。この経は41の偈からできています。そしてそれぞれの偈は「犀の角のように一人行こう」という句で終わります。

「犀の角のように一人行こう」という言葉の響きはとても潔い、爽やかな感じがあります。しかし、一方反社会的な、協調性のない、孤独さを感じさせ、仏教を誤解して、意味を取る人がいるかもしれません。

ブッダはアーナンダ長老に「善友こそは仏教修行のすべてだ」と教えたように、仏教は善友と付き合うことを大切にしています。ですから、一般的には「犀の角のように一人行こう」ではなく、「善友と親しく付き合いなさい」と言うのです。

スッタニパータの始めに、説明しましたように、スッタニパータは悟った方、覚者の境地から語られたものなのです。しかもこの経は単に悟った方というだけでなく、だれの指導を受けずに、自分一人の力で悟られた方を辟支仏(ビャクシブツ)あるいは独覚仏とも言いますが、そのようなブッダの境地を語ったものです。独覚仏には親交すべき善友はいないのです。前人未踏の悟りの道は独力で切り開いていかなければならなかったのです。その点、普通の阿羅漢とは違います。阿羅漢はブッダの指導に従って、悟りを開いた方なのです。

現在はブッダの教えがありますから、独覚仏の態度をそのままマネをするのは正しくないかもしれません。その点に注意して、この「犀の角経」を理解すべきなのだと思います。ここに語られているブッダの気持ちを学ぶべきなのです。そのまま実践せよということではないと思います。

日本語訳については、中村先生は「ただ独り歩め」とされていますが、正田先生は「独り、歩むもの」としています。また、毎田先生は「ただ一人歩いてゆかう」としています。単純な命令形にはしていないのです。「ブッダ自身はそうされたのだ」ということを示されているのだと思います。

さて、最後の四行目の説明が長くなりましたが、一、二行目の説明をしましょう。
「一切の生きものに杖をふるはず
その一つをさえ悩ますことなく」
杖あるいは棒は暴力を意味します。ブッダの非暴力の態度が示されています。すべての生命に対する慈悲の態度なのです。

これはダンマパダの129番、130番で学びました。
129 人々は 死ぬこと恐れる それゆえに 殺してはならぬ 殺させてはならぬ
130 人々は 命愛しむ それゆえに 殺してはならぬ 殺させてはならる
129 http://76263383.at.webry.info/201207/article_12.html
130 http://76263383.at.webry.info/201207/article_13.html

三行目「子供や仲間を欲しがらないで」は、子供を持つことを欲しがるのは当然、その母親との関係が予想されます。ダニヤ経で学んだように、子供や妻に幸せを求めるはかなさが分かっているのです。さらに、仲間を求めるのは仲間への依存や、自己防衛の気持ちからでしょう。これらが執着や束縛の原因になることが分かっているのです。

なぜ、三行目でこの句が出てきた意味は、一、二行目の慈悲の気持ちは子供や仲間への愛情につながり、執着の原因の危険性があるからです。ここできちんと押さえているのです。そこで四行目の「犀の角のように一人行こう」すなわち、何ものにも執着しない、自立した、自由な生活をしようという句が生きてくるのです。ブッダの言葉は自然に話された言葉だと思いますが、よく考えられた偈なのだと思ってしまいます。

ただ、この句は世間の常識と感情にとらわれている人々には抵抗のある言葉です。一般の人々には理解できなくて同然ですし、これを人々にこのようにしなさいと言っているわけではないのです。ただ、ブッダはそのようにされたということです。一般の人々へのアドバイスとしては、子供や仲間を求めても、執着するなということでしょう。


生きものを 慈しむけど 子をもたず 仲間求めず 一人で歩く<35>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。
朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。
但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。
変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。
詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。
そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。御支援をお願い致します。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

お釈迦様の祝祭日を皆でお祝いしましょう!!!

ウェーサーカ祭

関東方面
2013年5月12日(日)
午前ゴータミー精舎で食事のお布施
午後 渋谷区立文化総合センター大和田さくらホール。入場無料。予約不要。
詳細:http://extech.xsrv.jp/wesak2013/


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


この記事へのコメント

カエルくん
2013年05月05日 05:49
おはようございます。
親しい人に慈しみの心で接しつつ、執着はしないように、ということですね。愛着でなく、慈しみを。
心がけます。
水口かよこ
2013年05月05日 07:06
私は独身ですが、もし結婚していて子供がいたらどういう風に受け取るだろうかと、思います。また、子供に読み聞かせるとしたらどう伝えるだろうかとも思いました。

ブッダの言葉だと思いますので、納得いく答えがあるはずだとも思います。

親であれば子のことをまず第一に考えねばならないと思いました。

自分の事よりも、子供が第一だと思いました。

たとえ子供が独立しても。やはり親は子供が第一だと思います。

子供が第一ということは、それを支える親自身も第一に大切だとも思いました。

子を持てば生きることが第一番に大切なことになると思いました
あすか
2013年05月05日 11:15
犀の角のように、
のフレーズはよく耳にしますが
しっかり読んだことはなかったので
とても楽しみです。
静まり
2013年05月05日 12:01
子供を自分の所有物としない、
友人を自分の所有物としない、

(自分の意のままに操れるロボットにしない
 自分もロボットとして生きずに自立する
 所有・被所有で苦・寂しさを紛わさない
 自分で考える事を放棄しない)

互いの人格・人権を尊重して
根本的な苦のある、すべては同じ生命として、
善友として切磋琢磨して生きていきます。
櫻井由紀
2013年05月05日 22:59
15年位前にこの
「犀の角経」に出会いましたが
その時以来私が実行している事。

3匹の飼い猫さんと、
外にいる10匹位いる野良猫さん達から
兄弟の様に慕われ遊んでもらっている。

結婚はしましたが
子供は作りませんでした。

生まれてこのかた
一度たりとも
携帯電話を所有した事がありません。
(難しそう。どうやって使うのかな?)

皆私の事を奇異の目で見ます。
不思議ですかね?
ですよね、やっぱり。はい。
SRKWブッダ
2014年07月25日 07:48
犀の角は、毛が集まったもので、一本の骨格による角ではない。すなわち、現代で言えば筆のようなものを言い表している。これは、実はひとかたまりに見えて実はバラバラであることの象徴である。また、角の本体は先端に突き出た一本の毛であると承知しなければならない。他の毛はいわば角を包む鞘のようなものだと言えよう。このことは、最先鋒(最先端、一等賞)になるべきことを示している。けだし、覚り(=解脱)は一つの智慧に一人だけ起こることであるからである。見い出された智慧は覚りの機縁としては使い回しができない。このような事情から、──衆生を抜けだして一等賞になれというのは憚られるので──犀の角という譬喩が用いられる。

他の毛に癒着して引きずられると最先端になることはできない。修行者には(犀の)角であることが求められる。そうでなければ覚らないからである。たとえば、公園で遊んでいた子どもたちの中で、ある一人が『もうこんな子どもじみた遊びはやってられねえよ!』と言ったとき、かれは間違いなく大人の仲間入りを果たしたのである。

子があれば、愛着を生じて慈悲心を確立することが難しい。世間の親心とは「自分の子だけが可愛く他人の子は憎たらしい)」というものだからである。朋友があれば、情実を生じて平等心を確立することは難しい。旧知の友とは、彼だけが味方で他は敵というものだからである。これではとても犀の角(真の一等賞)になることは叶わない。

覚り(=解脱)が、徒党を組んで生じ得るものならば何の問題もない。しかしながら、覚り(=解脱)は、最初から最後まで各自のことがらなのである。もちろん、自分さえ良ければよいというものではなく、大人の仲間入りを果たした子供のように、人は衆生を抜けだして一人ずつ仏となるしか方法がない。それが偽ることのない覚りの一つの真実なのである。

***
SRKWブッダ
2014年07月25日 08:43
ところで、譬喩には二つの利点がある。一つは、状況を端的に表現できること。もう一つは、そのまま直に言明することが憚られることがらを譬喩を以って断乎とした形で表現し明言できること。「犀の角」もそのような譬喩の一つであると言ってよいでしょう。

***
こころざし
2016年02月25日 07:41
何か厚意的な事をすると、色々な意味で見返りを求めるような姿勢があります。その人が私のその厚意で大変助かったとなって欲しい・・みたいな気持ちです。ですがそれは執着になると思います。
慈しみの実践をしながら執着せずに、自分の修行を進めて参りたいです。