打算から 友を求める 人多く 無心の友なく 一人で歩く<75>

○少年少女のためのスッタニパータ75
・・・
友達が欲しいと、
思っていても、
自己中の人は、
心を閉じている人は、
友達ができません。


75.第1 蛇の章 3.犀の角経 41

○毎田周一先生訳
当てがあって交際し奉仕する友はあつても
無心で一切を許し合う友は今や得難い
自分の利益だけを見てゐる人は汚らはしい
犀の角のやうにただ一人歩いてゆかう


○中村元先生訳
今の人々は自分の利益のために、交わりを結び、また他人に奉仕する。
今日、利益をめざさない友は、得がたい。
自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。
犀の角のようにただ独り歩め。


○正田大観先生訳
〔人々は〕義(利益)を動機として、〔他者と〕親しみ、そして、慣れ親しむ。
今日、〔打算的〕動機なき〔真の〕朋友たちは、得難きもの。
自己を義(利益)とする知慧(自己本位の断片的知識)ある人間たちは、不浄である。
犀の角のように、独り、歩むがよい。ということで――(41)


○パーリ語原文
バジャンティ   セーワンティ   チャ   カーラナッター
Bhajanti      sevanti      ca     kāraṇatthā,
交わり       仕える       と    利益を理由として

ニッカーラナー   ドゥッラバー   アッジャ   ミッター
nikkāraṇā      dullabhā     ajja      mittā;
理由のない     得難い      今日     友

アッタッタパンニャー   アスチー   マヌッサー
Attaṭṭhapaññā       asucī     manussā,
自分の利益の智慧    不浄の   人間たちは

エーコー   チャレー    カッガウィサーナカッポー
eko      care       khaggavisāṇakappo.
一人     行こう      犀の角のように


○一口メモ
ついに、「犀の角経」の最後の偈になりました。なぜこの偈が「犀の角経」の最後の偈なのかよく考える必要があります。偈の意味自体はそれほど難しくないと思ってもよいのか、あるいはやさしいと思ったら理解できない意味があるのかよく考えてみましょう。

パーリ語からの訳としては、中村先生の訳が分かりやすいと思います。二行目「今日、利益をめざさない友は、得がたい。」を毎田先生は「無心で一切を許し合う友は今や得難い」と訳されています。この事実は、2500年前のインドでも、現代の日本でも変わらない現実だと思います。

三行目「自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。」「自分の利益だけを見てゐる人は汚らはしい」です。
この二行目、三行があるから、繰り返し述べてきた「犀の角のように一人で歩こう」があるのです。

このように考えると、この最後の偈は、「犀の角経」を説かれた釈尊の動機、理由ではないかと思います。そうしますと、釈尊のこの意図に基づいて、「犀の角経」を再読の必要を感じさせるものです。

次に、釈尊が求められていた「無心で一切を許し合う友」について、毎田先生の解説を引用します。

「釈尊の求めてやまざれし友こそは、かかる同心の友であつた。これが絶対の友である。相手を見分け、その性能を判別し、このような処があるから友となる、或いは友とならぬというのではなくて、全く無条件の友である。無心の友、真理の友である。真理の外に他の何ものもなき、例えば世俗とか世間とか、世の約束とか習慣とか、そして当為(=するべき)とかいうものの何もない友である。一切を許し合ふとは、そこにただ真理のみを認識するのである。そもそも無心とは、真理のみあるということだからである。」

これで、「犀の角経」は終了しますが、是非、この経ぼ始めの偈から全体を再読して頂きたいと思います。


打算から 友を求める 人多く 無心の友なく 一人で歩く<75>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

鹿野苑の馬鹿凡
2013年06月14日 09:58
やはり「犀の角経」はディープな出世間の境地を説くもので極めて奥が深く、修行体験に応じて種々の理解が可能になってくるのではないでしょうか(ブッダのダンマは全てそういうものなのでしょうけれど)。

<無心で一切を許し合う友>
についての毎田先生の粋なご解説に触発されて、凡庸なる頭をちょっと捻ってみました。

(1)「無心」とは、「真理(四聖諦・涅槃)のみある」というのは確かに名言ですが、

「無心で」とは、もう少し具体的なレベルでいえば、「エゴ妄想への捉われ(我執)を排して」という意味にとらえることも可能だと思います。

(2)「一切を許す」とは、
①見返りを一切求めない(無貪)(求めていないので許せるという意味)、
②許せないと思うこと(拒否しようとする衝動)が微塵もない(無瞋)、
③真理(四聖諦)を知り尽くしたこと(無痴・智慧)により一切の疑念(疑)が取り除かれて真理(四聖諦)に対する信頼(信)が確立している、
というように理解することもできると思います。

そうすると、我執を完全に取り除き、全ての煩悩を滅尽しない限り、「無心で一切を許す」ことはできない、ということになりそうです。

(3)また、「友」とは「相手に対して何らの見返りを求めずに相手に善きことのみをもたらす者」すなわち善友のことでしょう。最良の善友は、「苦滅(涅槃)という最高の楽に達するために具体的に正しい方法(正法)を他者に適切に教えることによって、その教えを聞いた者が自ら涅槃に達することができるように導く者」すなわち、無量なる慈悲の実践者のことでしょう。

ということは、「無心で」「一切を許す」「友」とは、ブッダ(智慧と慈悲のお方)のことを指していることになります。

鹿野苑の馬鹿凡
2013年06月14日 10:03
(続きです)
(4)ところで、「許し合う友」とは、そのような「友」が同時に二人以上存在することを前提としているのでしょう。

しかしながら、独覚ならばともかく、ブッダがお二人同時に存在することはないでしょう。

そのため、犀の角のように独りで行くしかない(天上天下唯我独尊)と。

皆様に智慧の光が輝きますように
生きとし生けるものが幸せでありますように

鹿野苑の馬鹿凡
櫻井由紀
2013年06月14日 12:39
鹿野苑の馬鹿凡さんの精密な分析による
コメント、有り難く読ませていただきました。

人生の唯一の目的は
人格を向上させる事で、
人格を向上させるためには
宇宙よりも広くて大きい
慈悲の心と智慧を
自分の中に不放逸に開発させる事です。
それを実践するためには
「幻影に重きを置く様な
心の持ち主達に振り回されない」
=犀の角のように独り歩む
と言う事ですね。

ワンギーサ先生
「犀の角経」の御解説
ありがとうございました。
無量なる先生の御教えに
心より感謝いたします。
次のお経が楽しみです。
ワンギーサ
2013年06月15日 04:22
みなさん、おはようございます。

現在、ブログ更新ができない状態になっていますので、
6月15日の記事は、しばらくお待ちください。
更新できる状態になれば、すぐに更新します。

三宝のご加護がありますように
ワンギーサ
てくてく
2013年06月16日 08:51
おはようございます。
犀の角教を読み返しております。
読み返しながら、今は、このように感じ始めております。
この教えを学ぶもの、すべてのものへ平等に、お釈迦様は、”このように成れ”と、説かれているのではないでしょうかと。
悪い心に苦しむもののなかに居ても、あなたは智慧を持ちなさい。
智慧があるとき、思いやりがあります。
その智慧と思いやりは、あなたを護ります。
悪い心に苦しむもののなかに居て、例え、一人になっても、あなたは、この道を行きなさいと。
とても厳しく感じても、それ以上に温かいお釈迦さまからの叱咤激励だったのではないでしょうかと。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
こころざし
2016年03月09日 07:34
法・真理を友とし、一人で歩む事を基本にすれば、ぶれる事は少なく、道を間違える事はない印象を感じました。
自身がそのような姿勢が出来たら、伴ってくるものがきっと生じると思います。
ブッダと、スマナサーラ長老・ワンギーサ長老・日本テーラワーダ仏教協会のお坊様を尊敬し、そして自分もそれに伴った実践者に少しでも成れるように努力したいです。