目を伏せて うろうろせずに 意を守り 快楽求めず 一人で歩く<63>

○少年少女のためのスッタニパータ63
・・・
動物は本能に従って生きています。
人間も動物ですから、
本能に従って生きています。
しかし、人間には理性があります。
動物と同じで良いのでしょうか?
仏陀は答えを用意しています。


63.第1 蛇の章 3.犀の角経 29

○毎田周一先生訳
目をじつと下へ向けて うろうろせず
物に対する感じを乱されず 心は清らかに
快楽を求めず 情熱を燃やすことなく
犀の角のやうにただ一人歩いてゆかう


○中村元先生訳
俯して視、とめどなくうつろうことなく、
諸々の感官を防いで守り、こころを護り(慎しみ)、
(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、
犀の角のようにただ独り歩め。


○正田大観先生訳
〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、また、〔物欲しそうに〕足を運ばず、
〔感官〕機能(根)を守り、意を守り、
〔煩悩が〕漏れ出ず、〔貪欲の炎に〕焼かれず、
犀の角のように、独り、歩むもの。



○パーリ語原文
オッキッタチャックー   ナ   チャ   パードローロー
Okkhittacakkhū      na   ca     pādalolo,
眼をおとした       ない  と     うろつきまわる

グッティンドゥリヨー   ラッキタマーナサーノー
guttindriyo        rakkhitamānasāno;
感官を護り        心意を守った人は

アナワッストー   アパリダイハマーノー
Anavassuto     apariḍayhamāno,
煩悩のない     (煩悩に)焼かれないで

エーコー   チャレー   カッガウィサーナカッポー
eko      care      khaggavisāṇakappo.
一人     行こう     犀の角のように


○一口メモ
一昨日のブログにkumetsuさんが次のようなコメントを書いてくれました。コメント欄では読まない方もおられると思い、ここに掲載することにしました。大変面白く、多くの方の方に参考になると思います。

「仏道修行とは本能と戦うことなのです」とは正に至言であります!

(1)仏道修行こそは、全生命が最終的に勝たなければならない真の戦いだと思います。

ただし、自分以外の一切衆生の中には、倒すべき敵は一人もいません。
私たち全生命にとって、本当の敵は自分自身の心の中の奥底の「本能(寺)」に根深く巣食っている諸煩悩なのです。
厄介なことに、煩悩という敵は圧倒的に強大です。なにしろ私たちは、無始なる過去から現在に至るまで、この諸煩悩にひたすら連戦連敗を強いられ、苦しみ続けてきたのです。

しかしながら、今回はこれまでと状況が違っています。なぜなら、一切生命にとって史上最高の師であられる「ブッダ」が、「ダンマ」という無敵の必勝法をひっさげ、最強のコーチ陣「サンガ」をも引き連れて颯爽と出現されたので、今でも私たちが真剣に望みさえすれば、本能=煩悩に打ち勝つ奇跡を可能とする至極のコーチングを施してもらえる環境が残されているからです。

ブッダが編み出された必勝法である「戒・定・慧」の三学とは、いわば貪軍・瞋軍・痴軍の三大軍で構成される超手強い煩悩軍団を全て撃滅するためのストラテジーです。

(2)すなわち、
①まず、戒律の遵守により行動・言動のフィールドでの煩悩軍の活動を制御して弱らせた上、心の領域まで後退させます。
②次に、心という主戦場においては、サマタ瞑想(止・定)によって煩悩軍団を一時的に仮死状態に追い込むと同時に、事物の本性をあるがままに観察するための集中力を養います。
③最後に、ヴィパッサナー(観・慧)によって、「智慧(聖道智)」という最終兵器を獲得し、これによって潜在化している煩悩軍団の最高司令官である「無明」にとどめを指し、その全軍を余すところなく殲滅する、というのが基本的な戦略です。

この戦いは壮絶を極めるものとなるかもしれませんが、決して、「生きるか死ぬか」の戦いではありません。そうではなく、「生と死のいずれに対しても終止符を打つ」ことによって生老病死をはじめとする苦しみの輪廻から解脱し、涅槃に達するために、避けて通れない戦いなのです。

それでも、あなたは苦を放置し続けますか?
それとも、仏法僧に帰依して、煩悩軍団に挑戦してみませんか?
それでは、いつやるの?

皆様に智慧の光が輝きますように
生きとし生けるものが幸せでありますように」


さて、本日の偈の説明に入ります。もう少し頑張って、お読みください。苦しみをなくすために、現れる欲望が実は苦しみの原因であることが分かってきました。しかし、欲望は生命の本能となり、生きることとしっかりと結びつているのです。苦しみをなくすために、欲望をなくすことだと分かっても、実行することは不可能なほど難しいのです。

そこで、昨日の偈で述べられているように、強い意志や決意が必要なのです。今日の偈はさらに具体的に、その課題に取り組み方が述べられています。

始めに「目を下に向ける」です。これは何を意味しているのでしょうか?正田先生の訳には「〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし」となっています。これは注釈書にも書いてあることですが、これは意味を限定的とらえていると思います。「目を下に向けては」自己観察を表現しているのです。欲望(本能)との戦いは自己観察から始まるのです。

次は「うろうろしない」です。これは何を意味しているのでしょうか? また、正田先生の訳を批判しているようで悪いのですが、「〔物欲しそうに〕足を運ばず」程度のことではなく、進む道は決まっているのです。八正道の一本道です。涅槃への道なのです。うろうろする所などはないのです。

さらに次は「感覚を守ること」です。欲望は苦を避けるために現れますが、その契機は感覚にあります。感覚から欲望が現れる現象を観察すると、快なる感覚があるとき、心に欲望が現れます。ちなみに、不快な感覚があるとき、怒りが心に現れます。感覚に快や不快があっても、心に欲や怒りが現れないようにすることが、感覚を守るということです。実際的には、感覚の現象を正確に、客観的に(自分から離して)観察することで、快の感覚が欲望になること、不快の感覚が怒りになることを止めることができるのです。

さらにその次は、「心意を守ること」です。意とは心の入り口、すなわち心の感覚器官でありますが、心と意とは、ここでは心と理解してよいと思います。上で述べたように、感覚を守ることで、心に欲や怒りなどの煩悩が現れるのを防ぐことができるのです。

感覚を守り、心を守った人には、心に煩悩が現れませんから、心は煩悩によって焼けるような苦しみにあうことはないのです。何者にも悩まされることなく、犀の角のように一人で歩くのです。


目を伏せて うろうろせずに 意を守り 快楽求めず 一人で歩く<63>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎5月27日(月)から6月2日(日)まで、ワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するため、ゴータミー精舎における朝晩の自主瞑想会はお休みいたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

櫻井由紀
2013年06月02日 11:36
毎田先生、中村先生、正田先生、三先生方の
訳を読んだ時、私の生温い頭では
この詩の真意が読み取れず、もう少しで
誤った解釈をする所でした。
しかしワンギーサ先生の御解説を読んだ時
「あっ」と本当に声が出てしまいました。
先の三先生方の、様々な分析力、解析力、
分類力などの優れた研究によってなされた訳は
本当に素晴らしいものですけれども
ワンギーサ先生の御解説を読んでいると
「あら?お釈迦様ご本人が
今、これを仰ってる?」と
思ってしまう感覚になります。
ワンギーサ先生の訳が無かったら、
私の凡庸な頭は混乱し、
全く別の意味を自分勝手にインプット
してしまうところでした。
ワンギーサ先生ありがとうございます。
まだまだ盲目的で愚劣な私ですが
真理の御教示、それから私らの愚昧性に対する
御指導、御指摘、よろしくお願い致します。

生きとし生けるものが幸せでありますように
kumetsu改め、鹿野苑の馬鹿凡
2013年06月02日 12:33
ワンギーサ先生

小生の拙文を本文で紹介して下さり身に余る光栄でございますが、ふと気が付くとお恥ずかしいことに、「無明にとどめを<刺す>」というべきところを「とどめを<指す>」との誤記がありました。調子に乗って浮ついていたために「感官・心を防護」できず、肝心の詰めの部分で「無明」に足をすくわれました。先日、惜しくも完全試合を逃したダルビッシュの気分に重ね合わせて笑みを浮かべつつ、「無明、恐るべし」と心中でつぶやいた(このラベリングはNG?)次第です。

また、今日の先生のご解説の中で、「目を下に向けて」「うろうろしない」を読んだとき、思わず、以前にミャンマーでお見かけした、一人のセヤドーが托鉢をされているときの慎ましくも清らかな御姿がフラッシュバックしました。あれは「自己観察を怠らず感官・心を防護しながら八正道を真っ直ぐ歩む」ときの立ち居振る舞いだったのか・・・と、アッサジ長老の清浄な立ち居振る舞いを初めてご覧になったときのサーリプッタ長老に思いを馳せつつ・・・

貴ブログを通じて皆様に智慧の光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
ぽん母さん
2013年06月04日 23:04
日々ヴィパッサナーを実践している、2歳児の母です。
毎日イヤイヤ反抗期の子供を見ていると、
感覚を守ることの難しさをつくづく感じます。
修行も行きつ戻りつですが、今日のkumetsuさんの
コメントからの引用部分がとてもおもしろくて
ぐぐっとやる気になりました。
ありがとうございました。
こころざし
2016年03月05日 06:27
感覚は気を付けないと、それに反応して反射のように思考・煩悩が走り出す時があります。心が落ち着いていないと感じる機会です。
感覚を守る事、心を守る事、どちらも実践していく事で、少しでも出来る割合を増やして参りたいです。