執着の 場所は何かと 知り尽くし 求めることない 彼は聖者だ<210>
○少年少女のためのスッタニパータ210.
・・・
若いうちはいろいろ
こだわってみるのもいいかな。
人から見ると
馬鹿みたいに見えるのだが。
210.第1 蛇の章 12.聖者の経 4.
○毎田周一先生訳
210(4)
人が何にとりつくかをよく知つていて
その一つにさえ牽かれることなく
貪る心をすつきりと捨てた人 かういふ人こそ「静かな人」として
どんなことが起こつても昂奮しない人である
何故なら彼は既に彼岸に達しているからである
○中村元先生訳
210
あらゆる執著の場所を知りおわって、
そのいずれをも欲することなく、
貪りを離れ、欲のない聖者は、作為によって求めることがない。
かれは彼岸に達しているからである。
○正田大観先生訳
212.(210)
諸々の〔妄執が〕固着する場の一切を了知して、
それらのなかの唯の一つでさえも、欲さずにいるなら、
彼は、まさに、貪求を離れた貪求なき牟尼であり、
苦労することがない(もはや心を動かさない)。
なぜなら、彼岸に至った者として〔世に〕有るからである。(4)
○パーリ語原
212.
アンニャヤ サッバーニ ニウェーサナーニ
Aññāya sabbāni nivesanāni,
覚知して 一切の 安住する所を
アニカーマヤン アンニャタランピ テーサン
anikāmayaṃ aññatarampi tesaṃ;
希求することがない それぞれの一つも それらの
サ ウェー ムニー ウィータゲードー アギッドー
Sa ve munī vītagedho agiddho,
彼は 実に 聖者 貪欲を離れ 貪求のない
ナーユーハティー パーラガトー ヒ ホーティ
nāyūhatī pāragato hi hoti.
努力しない 彼岸に達した 故に ある
○一口メモ
スッタニパータが難しいと言われる理由は、この偈のような場合だろうと思います。この始めの行は中村先生の訳で示せば、「あらゆる執著の場所を知りおわって、」です。あらゆる執著の場所とは何かという問題があります。これはこの偈をよく読んでも書いてありません。聖者は知り終わっているから聖者なのですから、聖者でない身としては解らないのは当たり前と開きなおることもできますが、この偈を理解するためには、考えなければならないでしょう。
世間八法として知られている凡夫が関心のある事柄、「①利、②不利、③名誉、④不名誉、⑤非難、⑥賞賛、⑦楽、8苦」について知りつくしたと言うことでしょうか。
執着の場所を眼、耳、鼻、舌、身、意と考えることもできます。見たものが、好ましいものであれば、それに執著すること。好ましくないものであれば、それは嫌だと嫌であることに執著するのです。耳、鼻などについても同様なことが言えるのです。
しかし、この偈の2行目、3行目には、「いずれにも欲することなく、貪りを離れ、欲のない聖者は」とありますから、また前偈209番と合わせて考えると、「あらゆる執著の場所」とは渇愛のことだろうと考えられます。渇愛を知り尽くして、渇愛を滅したのです。それゆえ、彼は彼岸に達していると述べられているのです。これは、四聖諦の教える処であります。
執着の 場所は何かと 知り尽くし 求めることない 彼は聖者だ<210>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎緊急連絡:9月15日(日)から9月19日(木)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。
◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。御支援をお願い致します。
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若いうちはいろいろ
こだわってみるのもいいかな。
人から見ると
馬鹿みたいに見えるのだが。
210.第1 蛇の章 12.聖者の経 4.
○毎田周一先生訳
210(4)
人が何にとりつくかをよく知つていて
その一つにさえ牽かれることなく
貪る心をすつきりと捨てた人 かういふ人こそ「静かな人」として
どんなことが起こつても昂奮しない人である
何故なら彼は既に彼岸に達しているからである
○中村元先生訳
210
あらゆる執著の場所を知りおわって、
そのいずれをも欲することなく、
貪りを離れ、欲のない聖者は、作為によって求めることがない。
かれは彼岸に達しているからである。
○正田大観先生訳
212.(210)
諸々の〔妄執が〕固着する場の一切を了知して、
それらのなかの唯の一つでさえも、欲さずにいるなら、
彼は、まさに、貪求を離れた貪求なき牟尼であり、
苦労することがない(もはや心を動かさない)。
なぜなら、彼岸に至った者として〔世に〕有るからである。(4)
○パーリ語原
212.
アンニャヤ サッバーニ ニウェーサナーニ
Aññāya sabbāni nivesanāni,
覚知して 一切の 安住する所を
アニカーマヤン アンニャタランピ テーサン
anikāmayaṃ aññatarampi tesaṃ;
希求することがない それぞれの一つも それらの
サ ウェー ムニー ウィータゲードー アギッドー
Sa ve munī vītagedho agiddho,
彼は 実に 聖者 貪欲を離れ 貪求のない
ナーユーハティー パーラガトー ヒ ホーティ
nāyūhatī pāragato hi hoti.
努力しない 彼岸に達した 故に ある
○一口メモ
スッタニパータが難しいと言われる理由は、この偈のような場合だろうと思います。この始めの行は中村先生の訳で示せば、「あらゆる執著の場所を知りおわって、」です。あらゆる執著の場所とは何かという問題があります。これはこの偈をよく読んでも書いてありません。聖者は知り終わっているから聖者なのですから、聖者でない身としては解らないのは当たり前と開きなおることもできますが、この偈を理解するためには、考えなければならないでしょう。
世間八法として知られている凡夫が関心のある事柄、「①利、②不利、③名誉、④不名誉、⑤非難、⑥賞賛、⑦楽、8苦」について知りつくしたと言うことでしょうか。
執着の場所を眼、耳、鼻、舌、身、意と考えることもできます。見たものが、好ましいものであれば、それに執著すること。好ましくないものであれば、それは嫌だと嫌であることに執著するのです。耳、鼻などについても同様なことが言えるのです。
しかし、この偈の2行目、3行目には、「いずれにも欲することなく、貪りを離れ、欲のない聖者は」とありますから、また前偈209番と合わせて考えると、「あらゆる執著の場所」とは渇愛のことだろうと考えられます。渇愛を知り尽くして、渇愛を滅したのです。それゆえ、彼は彼岸に達していると述べられているのです。これは、四聖諦の教える処であります。
執着の 場所は何かと 知り尽くし 求めることない 彼は聖者だ<210>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎緊急連絡:9月15日(日)から9月19日(木)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。
◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
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この記事へのコメント
意の中で合成されたものに騙され
「自我」と言うサンカーラが生まれる
執着が人にある事は確かですが
その執着の対象は
瞬間瞬間消えゆくから
本当のところ
執着は出来ないのでありますが
けれども「自我」の錯覚が消えない限り
渇愛は再成し続け
「もっと自分のために・・・・・
もっと もっと・・・・」と
まるで喉が渇いた人が
海水を飲み続ける様な事になります
いつになったら
本当に喉を潤す事が出来るのでしょうか・
ワンギーサ先生、
今回も最上の御解説
誠に有難うございます。
私一人では理解出来ませんでした。
先生の御解説は「宝」です。
この上が本当に無いのです。
生きとし生けるものが幸せでありますように
なんでも経験・・という言葉が何処まで本当なのか分かりませんが、執着する体験は嫌でもあると思いますので、あえて構えなくても自然に得るものかもしれませんね。
そして・・と成長できるように、精進したいです。
https://noritsu.seesaa.net/article/201309article_18.html