渇愛を この世において 完全に 彼は断ったと 世尊は言った<355>

○少年少女のためのスッタニパータ355.
・・・
山の中で修行して
怒らなくなっても、
山を下り嫌いな人に会って
怒りが出れば、まだまだです。


スッタニパータ355. 第2 小さな章 12.ヴァンギーサ経 13.

○中村元先生訳
355
師は答えた、
「かれはこの世において、
名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。
長いあいだ陥っていた黒魔の流れを断ち切ったのである」
五人の修行者の最上者であった尊き師はそのように語られた。


○正田大観先生訳
358.(355) 
かくのごとく、世尊は〔答えた〕
「〔カッパは〕名前と形態(名色:現象世界)にたいする渇愛を、この〔世において〕断ちました。
長夜にわたり悪しき習いとなった、黒き者(悪魔)の流れを〔断ちました〕。
残りなく生と死を超えました」〔と〕。
かくのごとく、世尊は説いた――五者(ブッダが最初に説法した五人の修行者)にとっての最勝なる方は。(13)


○パーリ語原文
357.
アッチェッチ     タンハン   イダ    ナーマルーペー
‘‘Acchecchi     taṇhaṃ    idha     nāmarūpe,
断ち切った      渇愛を    この世で 名と色における

イティ   バガワー
(iti     bhagavā)
 と    世尊は(答えた)

カンハッサ   ソータン    ディーガラッターヌサイタン
Kaṇhassa     sotaṃ     dīgharattānusayitaṃ;
黒の       流れを    長い間潜在していた

アターリ  ジャーティン   マラナン     アセーサン
Atāri     jātiṃ        maraṇaṃ    asesaṃ,’’
越えた   生を       死を       残りなく 

イッチャブラウィー   バガワー     パンチャセットー
Iccabravī          bhagavā     pañcaseṭṭho.
と述べた         世尊は      五者の最上者である


○一口メモ
この偈で、世尊はヴァンギーサ尊者に答えます。答えの内容は次の通りです。

「カッパはこの世で、身心に対する渇愛をすべて断ち切った。長い間、潜在していた黒の流れともいわれる煩悩をすべて断ち切った。残すことなく生死を超えた。」

「残すことなく生死を超えた」の生死については、2月7日の「一口メモ」で述べました。

この世尊の言葉は、残すことなく生存の残余を越えたので無余涅槃(般涅槃)をしたことを示しています。

四行目は世尊の言葉ではなく、この経の編集者の言葉ですが、「五者の最上者」の五者はいろいろな説があります。これは正田先生の訳にあるように、ブッダが最初に説法した五人の修行者と理解すればよいと思います。

ヴァンギーサ尊者は、やっと期待通りの世尊の言葉を聞けて良かったですね。


渇愛を この世において 完全に 彼は断ったと 世尊は言った<355>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎2月7日(金)から2月11日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

ごろた石てつや
2014年02月11日 15:27
私には、全ての渇愛を捨てる事は、できません。
全ての渇愛を捨てる。という行為は、私に矛盾と苦を生むからです。

静かに呼吸を整え、indriya bhāvanā suttaを実践致し、
瞬間瞬間、心の揺れを捨てて、捏造しないで、ありのままを見る練習を行い。
瞬間瞬間、心の揺れを捨てて、小さな苦の滅尽を経験しております。
心の揺れを捨てる訓練は、強力な理性を育てます。
慈悲は、理性の能力の一つと理解しました。

そして、ありのままを見れば見るほど、矛盾が生じてきました。
それは、本能との格闘です。
他の生命を殺して食する事も、生命のありのままの姿です。
性行為をする事もありのままの姿です。
時には、侵略者から、生き残る為に、争いを行う事も、ありのままの姿です。

これらの行為、即ち本能もありのままの姿として、受け入れる事が理性だと思いました。
但し無用に必要以上にこれらの行為を行わない。
即ち、心の揺れを捨てる。事が必要だと、今は思っております

生き残るのは、競争だから。
本能と理性の戦いだから。永遠に。

しかし、死ぬときには、全ての渇愛を捨てなければ、苦しみから解放されません。
中島
2014年02月11日 19:17
さすが……ブッダは余計なことは一切言われませんね。
SRKWブッダ
2014年08月20日 21:19
五人の修行者の最上者であった尊き師はそのように語られた:

これは、このとき、その場に5人居たことを示している。一人は釈尊、もう一人はヴァンギーサ、残る三人は敢えて名を明かさない修行者。

もし、このようなデリケートな内容についての答えがヴァンギーサだけに語られたのだとしたら、他の修行者はどうしてそれをそのままに信じることができるだろう。ここに居合わせた証人の存在が不可欠となる。

もし証人が一人だけならば、かれがヴァンギーサと共謀して答えを捏造したという疑いが残るだろう。もし証人が二人いるならば、間違いなくこのデリケートな答えに釈尊がそのように答えたのだと証明できるだろう。しかしながら、この場合、証人のうちの一人がいなくなってしまえばやはり生き証人は一人ということになり疑わしい。証人が三人あれば、不測の事態を考慮しても、この答えの信憑性を疑いなく示すことが出来るだろう。すなわち、万が一、三人の証人のうちの一人がいなくなったとしても、残る二人が確かな証人となるからである。

限られた情報だけで5人の修行者の意味合いを真に解明することは難しいが、私(=SRKWブッダ)はこのように考える。

***
こころざし
2016年05月31日 07:30
冥想実践合宿などで心清らかになり(なった気がして)晴れ晴れと帰宅しても、その後の日常で元の木阿弥では・・と思う事があります。ですが、それに参加させて頂く前と後では確実に違うものがあるように感じています。
真の意味で渇愛を捨てれるように、日常でも心穏やかでいられるように、日々精進したいです。