カッパ師は 執着の根を 見極めて 死王の世界を 越えて行かれた<358>

○少年少女のためのスッタニパータ358.
・・・
ゲームに
熱中している君よ。
ゲームの電源を
切ってしまえ。
勝利は君のものだ。


スッタニパータ358. 第2 小さな章 12.ヴァンギーサ経 16.

○中村元先生訳
358 先生! カッパ師は
執著の根元を見たのです。
ああ、カッパ師は、
いとも渡りがたい死魔の領域を超えたのです。」


○正田大観先生訳
361.(358) 
世尊よ、カッピヤ(カッパ)は、
執取の最初(起源・根本原因)を見ました。
カッパーヤナ(カッパ)は、
まさに、極めて超え難い死魔の領域を超え行ったのです」〔と〕。ということで――(16)


○パーリ語原文
360.
アッダサー    バガワー   アーディン
‘‘Addasā      bhagavā    ādiṃ,
見ました      世尊よ    始めを

ウパーダーナッサ   カッピヨー
upādānassa        kappiyo;
執着の          カッパ師は

アッチャガー   ワタ     カッパーヤノー
Accagā       vata      kappāyano,
越えて行く    ああ      カッパ師は

マッチュデッヤン   スドゥッタランティ
maccudheyyaṃ     suduttara’’nti.
死王の領域を     極めて越えがたい・と


○一口メモ
今回の偈でヴァンギーサ経は終了します。

この偈はヴァンギーサ経の最後の偈ですが、この経の一番大切なことを述べていると言っていいと思います。また、これはブッダの教えの一番大切なところなのです。ここがカッパ師がブッダの教えを忠実に実践したということなのです。

カッパ師は自分の苦しみをヴィパッサナー瞑想で洞察しました。苦しみは自分の心が作り出していることが分かりました。それは心に生じた執着でした。そこで、執着を観察しました。そうすると「執着の始め」を発見できました。それは渇愛だったのです。そのことが分かったカッパ師は渇愛と決別したのでした。その途端に、極めて超え難い死魔の領域と言われている苦しみの輪廻を越えてしまったのです。カッパ師は完全に解脱したのです。

ということで、これがヴァンギーサ経のまとめの偈になります。


カッパ師は 執着の根を 見極めて 死王の世界を 越えて行かれた<358>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

noritarou
2014年02月14日 10:04
昨日の偈では、渇愛の量を感じました。
しかし、今回の偈で、そのような過去(概念)をみるのではなく、いまこの現在の瞬間、「執着の始め」を見ることが大事だと感じました。
生命のシステムは常に変化する、苦によって成り立っているので無意味であり、どんなものにも実体はないということを基底に、身体が乾いて水を欲するような渇愛から、それに執着してしまう固執から離れる瞬間をまざまざと体験することが必須だと思いました。
ななつ
2014年02月14日 23:42
渇愛を滅ぼし尽くしたいです。
身体への執着を捨てて、怠けを絶って、苦しみの矢を抜きたいです。
そのためにそろえるべき条件はお釈迦様とお坊様方が教えてくださっています。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
ななつ
2014年02月15日 21:38
渇愛を精密に観察することができれば、
渇愛の性質を知ることができれば、
「これは苦しみの生起するもとであり、危険なものですから、捨てます」と
五蘊に対する執着を捨てることができるということでしょうか。
11月に一度お邪魔した者です
2014年02月15日 22:23
お教え頂いた瞑想と慈経を日々行い、時折ブログも拝見しております。
私の渇愛の源は、(親の)愛を失う恐怖と財を失う恐怖でした!どちらも、自分の体験ではなく親に言い聞かされ刷り込まれた恐怖で、自分野茂のではないが故に言い知れぬ無力感に苛まれてしまうのか?と、思い至りました。お陰さまでなんとかなりそうです。ありがとうございます。
こころざし
2016年06月01日 07:32
自分の苦しみは心が作り出している事、自己観察をすると本当にそうだと実感致します。執着している・生きたいという気持ちがあり、そして渇愛にまみれている自分がいます。ではその渇愛を捨てる、との所で、言葉では話にならない、本当にそれが出来る様な姿勢でやっているのか、との状況になっていると思います。本当に捨てれるように、智慧を持って実践して参りたいです。