感情に 支配されない 修行者は この世において 正遊行する<366>
○少年少女のためのスッタニパータ366.
・・・
ほめられても
舞い上がらず
けなされても
落ち込まないように。
スッタニパータ366. 第2 小さな章 13.正遍歴遊行経 8.
○中村元先生訳
366
修行者が、『かれはわれを拝む』と思って高ぶることなく、
罵られても心にふくむことなく、
他人から食物を与えられたからとて驕ることがないならば、
かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
○正田大観先生訳
369.(366)
彼が、比丘として、『〔人は〕わたしを敬拝する』と傲慢にならず、
たとえ、罵られたとして〔他者を〕怨まず、
他者から食料を得て〔そののち〕、驕り高ぶらないなら、
彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。(8)
○パーリ語原文
368.
ヨー ワンダティ マンティ ヌンナメッヤ
‘‘Yo vandati manti nuṇṇameyya,
彼が 礼拝する 私を・と 高ぶらず
アックットーピ ナ サンディイェータ ビック
akkuṭṭhopi na sandhiyetha bhikkhu;
罵られても ない 怨む 比丘が
ラッダー パラボージャナン ナ マッジェー
Laddhā parabhojanaṃ na majje,
得て 他人から食べ物を ない 喜んで高ぶらない
サンマー ソー ローケー パリッバジェッヤ
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼は 世を 遍歴するだろう
○一口メモ
遍歴遊行する修行者にたいするブッダの言葉はかなり具体的になって来ました。インドでは人生の最後の時期に遍歴遊行する修行者は尊い行いをする者として尊敬されているようです。そのため、彼らは人々から礼拝されるというようなことがたびたびあるのだと思います。その際、自分は人から尊敬される立派な人間であると思って高慢にならないことは、修行者として正しい態度なのです。
また、逆に多くの人々のなかには、尊敬すべき人であっても、罵る人もいます。人はいろいろですから。その際、その罵りに対して、怒りを持たず、怨まないということは大変難しいことなのです。よほど自分の感情を制御する修行をしておかなければできません。しかし、それをやり遂げることが出来たならば立派です。
また、遍歴遊行する人に対して食事の布施をする人々がいます。その際、修行者は布施を受けても冷静で、喜び高ぶることがないようにすべきなのです。日本では、他人から物を頂けば、喜んで感謝するのが当たり前のように考えられており、謝辞を述べずに冷静にいることには違和感があると思いますが、それには多少文化的な違いがあると思います。しかし、修行者は喜怒哀楽の感情で心を汚さないことは必要なことなのです。
日常の細かい事柄にも注意を怠らず、自分自身の心を観察して、感情に支配されず、感情の主人として行動することが修行者にいつも求められているのです。それを実践する修行者は正しくこの世を遍歴遊行するということです。
感情に 支配されない 修行者は この世において 正遊行する<366>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
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ほめられても
舞い上がらず
けなされても
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スッタニパータ366. 第2 小さな章 13.正遍歴遊行経 8.
○中村元先生訳
366
修行者が、『かれはわれを拝む』と思って高ぶることなく、
罵られても心にふくむことなく、
他人から食物を与えられたからとて驕ることがないならば、
かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
○正田大観先生訳
369.(366)
彼が、比丘として、『〔人は〕わたしを敬拝する』と傲慢にならず、
たとえ、罵られたとして〔他者を〕怨まず、
他者から食料を得て〔そののち〕、驕り高ぶらないなら、
彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。(8)
○パーリ語原文
368.
ヨー ワンダティ マンティ ヌンナメッヤ
‘‘Yo vandati manti nuṇṇameyya,
彼が 礼拝する 私を・と 高ぶらず
アックットーピ ナ サンディイェータ ビック
akkuṭṭhopi na sandhiyetha bhikkhu;
罵られても ない 怨む 比丘が
ラッダー パラボージャナン ナ マッジェー
Laddhā parabhojanaṃ na majje,
得て 他人から食べ物を ない 喜んで高ぶらない
サンマー ソー ローケー パリッバジェッヤ
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼は 世を 遍歴するだろう
○一口メモ
遍歴遊行する修行者にたいするブッダの言葉はかなり具体的になって来ました。インドでは人生の最後の時期に遍歴遊行する修行者は尊い行いをする者として尊敬されているようです。そのため、彼らは人々から礼拝されるというようなことがたびたびあるのだと思います。その際、自分は人から尊敬される立派な人間であると思って高慢にならないことは、修行者として正しい態度なのです。
また、逆に多くの人々のなかには、尊敬すべき人であっても、罵る人もいます。人はいろいろですから。その際、その罵りに対して、怒りを持たず、怨まないということは大変難しいことなのです。よほど自分の感情を制御する修行をしておかなければできません。しかし、それをやり遂げることが出来たならば立派です。
また、遍歴遊行する人に対して食事の布施をする人々がいます。その際、修行者は布施を受けても冷静で、喜び高ぶることがないようにすべきなのです。日本では、他人から物を頂けば、喜んで感謝するのが当たり前のように考えられており、謝辞を述べずに冷静にいることには違和感があると思いますが、それには多少文化的な違いがあると思います。しかし、修行者は喜怒哀楽の感情で心を汚さないことは必要なことなのです。
日常の細かい事柄にも注意を怠らず、自分自身の心を観察して、感情に支配されず、感情の主人として行動することが修行者にいつも求められているのです。それを実践する修行者は正しくこの世を遍歴遊行するということです。
感情に 支配されない 修行者は この世において 正遊行する<366>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
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この記事へのコメント
日常生活を省みたら、感情に振りまわされることがあります、感情を制御することは立派なことと改めて思いました。
今の自分に気が付いて、興奮しない様に・冷静でいれるように努めたいです。
食事のお布施を受けた比丘の方々は、なぜお礼を言わないのだろう?と不思議だったときがありました。「托鉢のために、家の前に立つ。一心に、その家に住む人々の幸福を念じる。それは、食事の布施があろうが、無かろうが、関係ない。とにかく、一心に念じる。だから、たとえ食事の布施があっても、あえて『感謝の言葉』を述べることはない」。確かに、修行者の心は感情で汚れないですね。ご指導ありがとうございました。
https://noritsu.seesaa.net/article/201402article_22.html