法津(のりつ)如来 の独り言

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zoom RSS 眼耳鼻舌身の 欲望抑え 比丘たちは 正しい時間に 村に入れよ<387>

<<   作成日時 : 2014/03/15 04:19   >>

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○少年少女のためのスッタニパータ387.
・・・
汚れた心と
きれいな心があるようだ。
よく見極めて
きれいな心でいるように。


スッタニパータ387. 第2 小さな章 14.ダンミカ経 12.

○中村元先生訳
387 
諸々の色かたち・音声・味・香り・触れられるものは、
ひとびとをすっかり酔わせるものである。
これらのものに対する欲望を慎んで、
定められたときに、朝食を得るために(村に)入れよ。


○正田大観先生訳
390.(387) 
諸々の形態(色:眼の対象)と、諸々の音声(声:耳の対象)と、諸々の味感(味:舌の対象)と、諸々の臭香(香:鼻の対象)、諸々の接触(触:身の対象)とは、
それらは、有情たちを夢中にさせます。
これらの諸法(事象)にたいする欲〔の思い〕を取り除いて、
彼(比丘)は、〔正しい〕時に、〔すなわち、村人たちの〕朝食〔の時間〕に、〔村に〕入るように。(12)


○パーリ語原文
389.
ルーパー   チ    サッダー   チャ   ラサー   チャ   ガンダー
‘‘Rūpā     ca     saddā    ca     rasā    ca     gandhā,
形       と     音      と     味     と     香り

パッサー   チャ   イェー   サンマダヤンティ  サッテー
phassā     ca    ye      sammadayanti    satte;
接触      と   それらは  酔わせる      人々を

エーテース    ダンメース    ウィネッヤ    チャンダン
Etesu       dhammesu    vineyya      chandaṃ,
これらの     法に対する    除く        欲を

カーレーナ    ソー    パウィセー    パータラーサン
Kālena       so     pavise       pātarāsaṃ.
(正しい)時に  彼は   入るがよい    朝食に


○一口メモ
私たちは、見たり、聞いたり、味わったり、匂ったり、触ったりすると、いろいろな思いが現れます。ただ感じるだけならば問題はないのですが、いろいろな感覚に伴って現れる思いは時として、いろいろな問題を引き起こすのです。

その根本問題は、私(自我)は、私たちが見たり、聞いたり、匂ったりすることからできるということです。つまり、私たちは見るたびに、見たものは誰かという思いが出来ます。それが私(自我)を作るのです。その他の感覚についても同じことが起こり、私(自我)が出来上がるのです。自我は私たちが感じるたびに作りあげたものであり、思いの固まりなのです。

しかし、この自我は私の主人公になり、私を生かしている心を忘れてしまうのです。私たちが生きている上で必要なことはすべて心が行っているのです。心は私たちが起きているときはもちろん、寝ているときも忘れずに、呼吸をさせ、心臓を動かし、生かしています。また、何かを食べれば、歯と舌を上手に操り、食べ物をかみ砕き、消化、吸収、排泄と何も考えずとも、心は完璧にそれらを成し遂げているのです。それに対して、自我は、自分に対して無知であり、感情的で、欲が深く、煩悩そのものと言ってもよいのです。

ですから、私たちは自我を主人公にするのではなく、心に気づき、心を主人公にして生きることを目指すべきです。自我に主役を奪われた心は正しく機能せず、自我の奴隷になっているのです。

自我は自分を観察することはできません。絶えず外に向いています。自分を観察しようとしたときは、自我でなく心が働くのです。自己観察によって心の存在を自覚して、心の働きを知ることができるのです。ですから、心に気づいていない時は、サティ(気づき)は難しいのです。しかし、努力して自己観察することで、心に気づき、サティが容易にできるようになるのです。

この偈について説明すれば、感覚から自我が現れ、心は感覚に溺れ、主役を自我に奪われてしまいます。それ以後は、自我のままに動くことになりますが、煩悩そのものの自我により、悩み苦しむことになります。そのため、感覚から現れる欲を慎んで、心に主役の座をもどす必要があるのです。その時心は正しく機能します。

一昨日、3月13日のこのブログに対するコメントで「はなはち」さんが書いているように、ダンマパダ42番と43番に「邪なる心」と「正しい心」に関する偈は、今回の記事の参考になりますので参考にして下さい。
42 敵のする 酷いことより 酷いこと 邪なる心が 我にもたらす
http://76263383.at.webry.info/201204/article_18.html
43 父母の 愛情よりも 良いことを 正しい心が 我にもたらす
http://76263383.at.webry.info/201204/article_19.html


眼耳鼻舌身の 欲望抑え 比丘たちは 正しい時間に 村に入れよ<387>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


〜〜〜〜〜〜お知らせ〜〜〜〜〜〜

◎3月20日(木)から3月26日(水)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090−2311−9317に御連絡下さい。


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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちわ。質問があります。

何かを食べれば、歯と舌を上手に操り、食べ物をかみ砕き、消化、吸収、排泄と何も考えずとも、心は完璧にそれらを成し遂げているのです。(本文より引用)

という箇所ですが、これは身体がやってると思ってる人が大半だと思います。私も初期仏教に出会う前まではそう思ってました。
ここは瞑想しないと分からないのでしょうか?
説法を聞いた理解だけで、消化や排泄なども自動的に心がやってると理解できるものでしょうか?
肉体だけがすべてだと思ってる私たちには、心の存在を知る方法は、瞑想だけでしょうか?
浜中康年
2014/03/15 13:58
ありがとうございます。
心にすっと溶け込んで、わかりやすかったです。
みーむ
2014/03/15 19:56
 先生、こんばんは。
いつもわかりやすい解説ありがとうございます。
今回は特に目からウロコが落ちるように理解できました。それは、心と自我をなんとなく分かっていたつもりでしたが違いがはっきりしました。外からの刺激によって生まれる思いや感情が悪さを働きます。冷静に自我(思いや感情)に気づいて一歩離れた心でものごとを正しく見ることができるということですね。
Ishii
2014/03/15 21:24
浜中康年さん、こんばんは。質問にお答えします。
「何かを食べれば、歯と舌を上手に操り、食べ物をかみ砕き、消化、吸収、排泄と何も考えずとも、心は完璧にそれらを成し遂げているのです。(本文より引用)
という箇所ですが、これは身体がやってると思ってる人が大半だと思います。私も初期仏教に出会う前まではそう思ってました。ここは瞑想しないと分からないのでしょうか?説法を聞いた理解だけで、消化や排泄なども自動的に心がやってると理解できるものでしょうか?肉体だけがすべてだと思ってる私たちには、心の存在を知る方法は、瞑想だけでしょうか?」

解答:説法だけで、ある程度理解できると思いますが、実感あるいは腑に落ちるためには、瞑想も必要だと思います。
歩く瞑想、坐る瞑想だけでなく、意識を内面に向ける作業も瞑想というのならば、瞑想をしなければ、心の存在を知る方法は瞑想だけでしょう。
ワンギーサ
2014/03/15 23:46
ワンギーサ先生、お答えありがとうございます。

この質問をした理由は、事前に心の存在を知ることが出来ないなら、心を清らかにする瞑想をやる気にならないだろう、と思ったからです。
身体しかないと思っていたら、心をわざわざ見る気にならないだろうと。これは重要な問題だと感じ、人目につくコメント欄から質問いたしました。

お答えについて。

やはり、心の存在を実感として知るには、瞑想しかないのですね。

>説法だけで、ある程度理解できる

これは心に興味をもつ、と理解して構わないと思いました。

ある程度理解できれば、興味は沸くので、心を清らかにする意欲も沸く。

心の存在は知らなくても、心の存在に興味があれば瞑想する気になります。

(知る・知らないに執着しすぎて、興味をもつ、という第三の道に気づきませんでした)

疑問が晴れました。感謝いたします。
浜中康年
2014/03/16 04:07
本文を拝見し、今もそうですが当時もっと無知の頃、どうして外ばかり見るのか(それすら気が付けていませんでしたが・・)分かりませんでした。また発言と行動が伴わず、更に「自分は完璧にやっている」等の誤認識のある?な方がいる訳も分かりましたように思います。目線が常に外だから出来る事かと思います。
自己観察によって心の存在と働きに気が付けるようになり、そして心の法則が分るようになりたいです。
こころざし
2016/06/10 08:38

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