私たち 言葉にとらわれ 反応し 心を遠くに 放ってしまう<390>

○少年少女のためのスッタニパータ390.
・・・
ほめられても、けなされても
心はどこかに行ってしまう。
本当に生きるということは
心とともにいることだ。


スッタニパータ390. 第2 小さな章 14.ダンミカ経 15.

○中村元先生訳
390
実に或る人々は(誹謗の)ことばに反発する。
かれらは浅はかな小賢しい人々をわれは称賛しない。
(論争の)執著があちこちから生じて、かれらを束縛し、
かれらはそこでおのが心を遠くへ放ってしまう。

○正田大観先生訳
393.(390) 
まさに、或る者たちは、論に反駁します。
それらの知慧僅かな者たちを、〔わたしたちは〕賞賛しません。
彼らに、そこかしこから、諸々の執着〔の思い〕がつきまといます。
まさに、彼らは、そこにおいて、心を遠くに赴かせます(妄想する)。(15)


○パーリ語原文
392.
ワーダンヒ     エーコー     パティセーニヤンティ
‘‘Vādañhi      eke        paṭiseniyanti,
言葉に・実に    ある人々は   反発する  

ナ   テー    パサンサーマ    パリッタパンニェー
na    te      pasaṃsāma     parittapaññe;
ない  彼らを   称賛し       小賢しい人々を

タトー    タトー   ネー    パサジャンティ    サンガー
Tato     tato     ne      pasajanti       saṅgā,
あちらこちらから    彼らに   執着する       執着が

チッタンヒ     テー    タッタ     ガメンティ    ドゥーレー
cittañhi       te      tattha     gamenti     dūre.
心を・なぜなら  彼らは   そこで     行かせる   遠くに


○一口メモ
このブログのタイトルは、「困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く」です。現在はスッタニパータの偈を毎日一つずつ解説しています。それで皆さんはどのように思っているでしょうか? スッタニパータのすべての偈(1149偈あります)を読み終わったら、悟りを開けると思っていますか? 実はそうではないのです。本当はスッタニパータのどの偈でも一つだけでも、本当に納得して頂ければ、すぐ悟りを開けるように、ブッダは述べておられるのです。ですから、のんびりと終わりまで読んだら悟ろうと思わないでください。ダンミカ経では、ブッダのお答えの偈が始ってからはどの一つでも深く学べば悟れるようになっているのです。そのつもりでお読みください。

今回の偈もその通りです。昨日の偈と同様に「内に念を向けて、意(心)が外に出て行かないように、自己を制しなさい」と述べられているのです。以下具体的に説明します。

一行目、中村先生訳「実に或る人々は(誹謗の)ことばに反発する。」あるいは正田先生訳「まさに、或る者たちは、論に反駁します。」これは、パーリ語の言葉は論という意味もあるからです。
中村先生は「ことば」の前に(誹謗の)という説明を付けました。言葉だけでは反発と繋がらないと思われたのでしょう。また昨日の偈で「かげぐちや他の誹謗することばを発してはならぬ」とありましたから、それとのつながりを意識して訳されたのでしょう。

しかし、ある人々とばかりでなく多くの人々は言葉に反発しているのです。言葉は考えを反映しており、その考えは一人ひとり違い、各自は自分の考えに固執しています。ですから、多くの人々は言葉に反発してしまいます。また言葉で構成された論になればさらに、考え方に多くの違いが現れ、多くの反発があるのです。

人々の心に反発がある時、人々の意識は内側、自分自身に向いてなく、意識は外(他人)に向いています。そのことが今回の偈の四行目に書かれています。「かれらはそこでおのが心を遠くへ放ってしまう。」あるいは「まさに、彼らは、そこにおいて、心を遠くに赴かせます(妄想する)。」です。心を遠くに放ってしまえば、それは修行ではありません。

反対に、意識を自分に向けていれば、自分は自分の言葉(考え)を正しいと思い、執着しているのだなと分かります。自分はその言葉を固執する必要がないのだということも分かります。また自分の考えに固執して自分を不自由にしていることも分かってくるはずです。意識を自分に向けることで、自分の考えから自由になれば、苦がなくなり、楽になるのです。これが悟りと言うものではないでしょうか。


私たち 言葉にとらわれ 反応し 心を遠くに 放ってしまう<390>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎3月20日(木)から3月26日(水)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

はなはち
2014年03月18日 08:21
お会いでいなくてもこうやってダンマパダの新世界に出会えることがとてもうれしいです。 ワンギーサ先生ありがとうございます。
noritarou
2014年03月18日 10:25
「反発」するのは自我の働きですが、「反応」するのは生き物の特徴で、五感からの情報を断つことはできません。
私は極度の近視のため、眼鏡をかけると、物の輪郭がはっきりして鮮やかな意味が迫ってきます。
同じように、思考も、言葉にすることで鮮やかな意味がやってきます。
意味を考えることが思考で、この思考反応自体は喜びです。
その喜びは、生きていること、存在していることから生じるからです。
たとえば禅修行において、懸命に読経したり苦行したりしている時ではなく、突然の強烈な痛みや、「名前」を呼ばれたり、ふとした瞬間に大いなる喜びを知るのはその「反応がやってくる」のを体験するためでしょう。
執着をやめるとは、意志の力で起こせる事ではないと言われます。
感受や執着など、反応する瞬間がやってくるのを体験している時、それが誰なのかはわかりません。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
てくてく
2014年03月18日 16:41
こんにちは。
今日の偈を読んで、とても恥ずかしくなりました。正しいと思い込んだ考えにずーっと執着していたことに全く気付いていなかったからです。少年少女のためのスッタニパータの『本当に生きるということは心とともにいることだ』というこの言葉によって、ようやくそのことに気付くことができました。
「内」は、心とともにいること。「私」は、心とともにいるもの、と了解いたしました。心が遍満するものであるなら、私は遍満する心とともにいるものです。心が無限の力を持つなら、私は無限の力とともにいるものです。
今日の偈は、山かげで凍てついた残雪を溶かす温かな春の陽射しのようでした。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
こころざし
2016年06月11日 19:54
日常で、言葉に反発している自分がいます。意識が外に行っていると実感します。
また、このブログで毎日学ばせて頂きながら、「偈の一つだけでも、本当に納得するぞ!」との心意気があったか、と思いますと、冷や汗が出ます、心より反省致します。
偈の内容をもっと納得出来るように、意識を自分に向けながらやってみたいです。