最大の 苦痛を得ている 我が心 欲を望まぬ 見よこの清浄を<435>

○少年少女のためのスッタニパータ435.
・・・
寒ければ暖房が欲しいと思い、
暑ければ冷房が欲しいと思い、
お腹がすけば何か食べたいと思い、
のどが渇けば何か飲みたいと思う。
しかし、目標のある人は
そんなことはどうでもよい。


スッタニパータ435.第3 大きな章 2.精勤経 11.

○中村元先生訳
435
わたしはこのように安住し、
最大の苦痛をうけているのであるから、
わが心は諸々の欲望にひかれることがない。
見よ、心身の清らかなことを。


○正田大観先生訳
438.(435) 
このように〔世に〕住んでいる〔わたし〕の、
最上の〔苦痛の〕感受(受:知覚)を得た〔わたし〕の
――〔まさに〕その、わたしの――心は、諸々の欲望〔の対象〕について期待することがない。
見よ――自らの自己の清浄なることを。(11)


○パーリ語原文
437.
タッサ    メーワン       ウィハラトー
‘‘Tassa    m‘evaṃ       viharato,
その     私の・この様に   住んでいる

パッタッスッタマウェーダナン
Pattass‘uttama-vedanaṃ;
得ている・最高の(苦の)感覚を

カーメース    ナペッカテー    チッタン
Kāmesu      nāpekkhate     cittaṃ,
欲望を      望まない       心は

パッサ   サッタッサ    スッダタン
passa    sattassa      suddhataṃ.
見よ    有情の       清らかであることを


○一口メモ
この偈のポイントは、苦行をして、苦を経験すると楽を得たいと望むものだが、ブッダの場合はそうではないということであります。具体的に言えば、お腹がすけば何かを食べたいと思う。喉が渇けば何か飲みたいと思う。寒い時は暖を求めます。暑い時は冷を求めます。このように五種の欲望を期待するのです。しかし、ブッダにはそのような決して現れなかったと述べているのです。ただ、真理を求め、解脱を求め続けていたのです。

ブッダは「ああ、本当においしい食べ物を食べて、楽な寝床で寝たいものだ」とは決して思わなかったのです。ですから、この偈の四行目にあるように「(悪魔よ、)見よ、心身の清らかなことを」と述べているのです。

ここで、細かい問題を述べれば、中村先生が「心身」と訳された言葉はパーリ語ではsattaです。これは通常「有情、衆生、生物」などと訳されますが、正田先生は「自己」と訳されています。ブッダの意図は自分の心の清浄を見よということですから、心の意味だと思います。しかし、同じ偈の中にcittaṃ(心)がありますから、sattaを使ったのだと思います。同じ文章の中に同じ言葉を使わないようにするのが原則のようですから。(余計なことですが、私は文章が上手でないので、何度も同じ言葉を使います。しかし私の場合が誤解を避けようとする意図もあるのです。)


最大の 苦痛を得ている 我が心 欲を望まぬ 見よこの清浄を<435>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎4月28日(月)から5月6日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサが関西ウェーサーカ祭及び熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

ななつ
2014年04月24日 22:42
「欲望の対象に期待することがない」というお釈迦様の言葉について思い出したことを書きます。
食事中にサティを入れると、ほとんど味を感じていないことに気づきます。
ほとんどの時間を噛むことと飲み込むことや、「おいしい、もっともっと食べたい」という気持ちに費やしていました。
味を感じたと思っても味はすぐに消えてしまいます。味はとてもはかないです。
だからこそ「もっともっと」と渇愛が生まれますが、味そのものは無常ですぐに消えますから
味に執着してどんどん口に入れると、すぐにおなかが苦しくなって頭もぼーっとします。
美味しい味を感じたいと思っているのに、結果はよけいな苦しみが増えただけです。
このことを観察していたら、余りにも実りが少なすぎて、私はアホなんじゃないかと思いました。
サティを入れながら食べて、適度な量でごちそうさまをすると、
よけいな欲も生まれないし身体も頭も軽快でいられます。
この方が随分環境にも生き物にも優しく、自分にも優しいんだなあと、最近ようやく気づきました。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
こころざし
2016年06月24日 19:43
本文を拝見し、様々な状況と→それに対する欲求から、それらを満たす対処行動を優先し、修行を後回しにしている自分の現像を思いました。例えば洗濯を後回し又は中止して、座る冥想をしよう・・とはなりません。食べるのを止めてその分・・ともなりません。そしてその対象は、生活に必要なレベル?~新聞を見る等々まで幅広く、家事や仕事・・との表現を言い訳に使って修行を後回しにする、頂けない自分の姿勢を反省致します。
心の成長を目標に、もっと一日の時間の中で修行が出来る事を目指したいです。