この在家 煩わしくて 汚れてる ところが出家 その逆である<406>

○少年少女のためのスッタニパータ406
・・・
悩み苦しみがあるとすれば、
それはあなたの行ないが
法則から外れているのです。
世の中は法則に従って
成り立っているのですから。


スッタニパータ406. 第3 大きな章 1.出家経 2.

○中村元先生訳
406
「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、
塵のつもる場所である。
ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)」
と見て、出家されたのである。


○正田大観先生訳
409.(406) 
『この在家の居住は、煩雑で〔息苦しく〕、
塵の〔積もる〕場所(処:領域・範囲)である』と〔見て〕、
『出家は、まさしく、開かれたところである』と見て、
〔覚者ゴータマは〕出家しました。(2)


○パーリ語原文
408.
サンバードーヤン    ガラーワーソー
Sambādhoyaṃ      gharāvāso,
煩雑で  この     在家の住まいは

ラジャッサーヤタナン    イティ
rajassāyatanaṃ        iti;
塵の積る・所         と

アッボーカーソーワ      パッバッジャー
Abbhokāsova          pabbajjā,
開かれた処・まさに      出家は

イティ    ディスワーナ    パッバジ
iti       disvāna       pabbaji.
と       見て        出家した


○一口メモ
今回は、少し大胆な私の見解を述べてみます。しかし、もし釈尊が今おられたら、私の見解は間違っていないと言われるのではないかと思います。

釈尊が出家されたのは、釈尊が悟られる前の出来事です。悟ってないから出家して修行しようと思われたのです。その時の思いはこの偈にありますように、「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。」でありました。このように思うのは悟ってない人の思いです。自我がこのように思うのです。悟られて、自我のなくなった方はこのように思わないと思います。

また「ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)」ということは本当でしょう。しかし、悟られた、自我のない、こだわり、執着のない方は、在家の生活であっても、このように感じられるのではないでしょうか。

しかし、アーナンダ尊者が語られた釈尊の出家のいきさつは、この偈のように釈尊が在家の生活と出家について考えておられていたことは間違いないことです。ですから、釈尊は出家して修行しようと思われたのだと思います。

とはいえ、悟られてからの釈尊も出家を奨励しておられます。それは在家生活への執着(煩悩)は在家の生活を続けていると捨て難いということがあります。出家することで、在家生活への執着を断ち切ることができやすいからだと思います。ただ、出家しても煩悩を捨てることは、その人の修行次第ですので、出家したから煩悩を捨てられるというものではありません。また在家にいても、煩悩を捨てることは可能なのです。例えば、ダンミカ経で学んだダンミカさんは在家の生活を続けながら不還果の悟りを得て、最終的には阿羅漢になられました。


この在家 煩わしくて 汚れてる ところが出家 その逆である<406>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎4月28日(月)から5月6日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサが関西ウェーサーカ祭及び熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。御支援をお願い致します。

この記事へのコメント

あすか
2014年04月03日 18:57
ダンミカさんの例は
本当に励みになりますね。
在家ならではの様々なこと、
修行の邪魔と考えるのではなく、
よい訓練の機会として、
日々精進します。
てくてく
2014年04月03日 22:30
こんばんは。
さあ、これから心について解き明かして行こうとするものが、欲ばかりを問題にするものの中に在って、それらを煩わしいと受け取ってしまったことは、正直と思いました。真理は平等だから在家であっても出家であっても構わないと思いました。どこに居ても誰と居ても修行するものの心次第だと思いました。やると決めたらとことんやる。それだけで充分に修行して行けるのだと思いました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。


MK
2014年04月04日 00:08
果たして在家でも悟りに達すれば、普段の生活の中にも煩いは感じなくなるものでしょうか。
仏教の実践が進めば、人と対立する事も少なくなり、飲みながら愚痴り合うといった余計な付き合いも減り、雑務が減って、広々することは確かなようです。
ただ、同時に人付き合いが減って寂しさを感じる時間が増えるのも確かです。それは僕のやり方がまずいのか、致し方ない事なのか、ただの煩悩なのか、よく分かりません。どれも当てはまるように思います。僕なりによく研究してみようと思います。
こころざし
2016年06月17日 07:30
毎日の日常で、何かしらの誘惑が生じます。相手に悪意のある時もあれば、自分の頂けなさから来るものもあります。夜叉がいる、との表現を最近自分はそんな時に使っています。
執着せず・縛られず、今・ここで生きれるように、努めたいです。