法津(のりつ)如来 の独り言

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zoom RSS 煩悩の 激流渡った 無我者に 時に応じて 供養しなさい<495>及び<496>

<<   作成日時 : 2014/06/18 03:51   >>

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○少年少女のためのスッタニパータ<495.496.>
・・・
渇愛と自我は
二子の兄弟だと
知っていましたか?
親は感覚です。


第3 大きな章 5.マーガ経 9.10.

○中村元先生訳
495
実に諸々の愛執に耽らず、すでに激流をわたりおわって、
わがものという執著なしに歩む人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。
──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

496
この世でもかの世でも、いかなる世界についても、
移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。
──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。


○正田大観先生訳
501.(495) 
彼ら、まさに、諸々の渇愛のうちに陥ることなく、
激流を超えて、我執なく歩む者たち
――彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。
すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(10)

502.(496) 
この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、
種々なる生存のために、彼らに、渇愛〔の思い〕が、どこであれ、世において存在しないなら
――彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。
すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(11)


○パーリ語原文
500.
イェー   ウェー     ナ    タンハース    ウパーティパンナー
‘‘Ye    ve       na    taṇhāsu      upātipannā,
彼らは   実に     ない  渇愛に       耽らず

ウィタレッヤ    オーガン   アママー   チャランティ
vitareyya      oghaṃ     amamā     caranti;
渡り終わって   激流を     我執なく    行く

カーレーナ    テース    バビャン    パウェッチェ
Kālena       tesu      habyaṃ     pavecche,
時に応じ     その人達に 供物を     供養するがよい

ヨー    ブラーフマノー    プンニャペッコー    ヤジェータ
yo     brāhmaṇo       puññapekkho      yajetha.
もし    バラモンが      功徳を望んで      祭祀をするのであるなら

501.
イェーサン     タンハー    ナッティ     クヒンチ    ローケー
‘‘Yesaṃ      taṇhā      natthi      kuhiñci     loke,
彼らに       渇愛が     ない       何処でも    世界に

バワーバワーヤ     イダ    ワー    フラン     ワー
bhavābhavāya       idha    vā      huraṃ     vā;
種々の生存に対する  この世  或は    あの世    或は

カーレーナ    テース    バビャン    パウェッチェ
Kālena       tesu      habyaṃ     pavecche,
時に応じ     その人達に 供物を     供養するがよい

ヨー    ブラーフマノー    プンニャペッコー    ヤジェータ
yo     brāhmaṇo       puññapekkho      yajetha.
もし    バラモンが      功徳を望んで      祭祀をするのであるなら


○一口メモ
今回の二つの偈も前回と同じ形式のです。ですから、それぞれ始めの二行について考えてみましょう。

495偈の始めの二行は、「実に諸々の愛執に耽らず、すでに激流をわたりおわって、わがものという執著なしに歩む人々がいる。(中村先生訳)」 taṇhāは通常渇愛と訳されますが、中村先生は決して渇愛という言葉は使いません。渇愛は仏教専門用語だからだと思います。この場合は愛執あるいは妄執という言葉を使います。渇愛とは喉が渇いた人が水を求めるような欲望という意味です。説明を聞けば仏教用語とはいえ、意味がよく伝わると思います。

激流とは、煩悩を意味します。煩悩は激流のように、克服することが難しく、それに流されてしまうからです。渇愛に耽らないのであれば、渇愛はいろいろな煩悩の根本にあるものなので、煩悩の激流を渡ることができるのです。渡るとは煩悩を克服したということです。

渇愛は感覚を縁にして生まれます。ここで自我が生まれる事情を考えてみましょう。実は自我も感覚を縁にして生まれます。何かを見たり、聞いたりするたびに、私が見た、私が聞いたという私(自我)という主語(妄想)が生まれるのです。ですから渇愛と自我は二子の兄弟のようなものです。渇愛が克服される過程は、自我が克服される過程でもあるのです。ですから、煩悩の激流を渡った人は自我の固執すなわち我執はないのです。

496偈の始めの二行は「この世でもかの世でも、いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる。(中村先生訳)」簡単に言えば、「死後には良い処に生まれ変わりたいという思い(渇愛)がない人々がいる」ということです。渇愛があるから輪廻があるのです。
渇愛を少し詳しく説明すると三つに分類されます。
1.愛欲 : 色、声、香、味、触、五欲に対する渇愛(欲しい欲しいという思い)
2.有愛 : 生存に対する渇愛(生きたいという思い)
3.無有愛 : 虚無への渇愛(破壊したいという思い)
この内の特に2.有愛があるので輪廻するのです。渇愛のなくなった人は輪廻しないのです。また渇愛のなくなった人は、固執、有、生、老、死、苦蘊が次々に滅し、解脱するのです。このような人々に時に応じて、布施をすれば大きな功徳があるのです。


煩悩の 激流渡った 無我者に 時に応じて 供養しなさい<495>

来世への 生を望まぬ 人々を 時に応じて 供養しなさい<496>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


〜〜〜〜〜〜お知らせ〜〜〜〜〜〜

◎7月4日(金)から7月8日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090−2311−9317に御連絡下さい。


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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
自我が強い程、渇愛も大きくなるように思います。また渇愛を減らそうと思いますと、自我を減らす事になる等の連動を感じます。
感覚から発生しているそれらを観察し・知って、そして自我や渇愛を減らせるように実践して参りたいです。
こころざし
2016/07/12 07:40

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