死ぬ人の 生前死後を 知らないで 知ることなしに 無意味に嘆く<582>

○少年少女のためのスッタニパータ<582>
・・・
隣の子供が泣きだすと
小さな子供は泣きだしますが、
自分でも泣く理由が
分からないのです。


第3 大きな章 8.矢経(葥経:せんきょう)9.

○日本テーラワーダ仏教協会「日常読誦経典」訳
582.
どこから来た者か、
またどこへ逝ったか、それ、あなたは知らない。
両辺も見えないその人のために、
あなたは無意味に嘆く。


○中村元先生訳
582
汝は、来た人の道を知らず、
また去った人の道を知らない。
汝は(生と死の)両端を見きわめないで、
わめいて、いたずらになき悲しむ。


○正田大観先生訳
588.(582) 
来た者の、あるいは、去った者の
――彼の道を、〔あなたは〕知らない。
〔生と死の〕両極を正しく見ずに、
〔あなたは〕義(意味)なく、嘆き悲しむ。(9)


○パーリ語原文
587.
ヤッサ    マッガン  ナ    ジャーナースィ
Yassa     maggaṃ   na    jānāsi,
その人の  道を     ない   知ら

アーガタッサ    ガタッサ   ワー
āgatassa       gatassa    vā;
来た者の      行った者の 或は

ウボー    アンテー    アサンパッサン
Ubho     ante       asampassaṃ,
両方     終極      正しく見ない

ニラッタン   パリデーワスィ
niratthaṃ    paridevasi.
益のなく    泣く


○一口メモ
死んだ人を悔やんでなくのにはいろいろな理由があるだろうと思います。自分の身に引き比べて、自分は死にたくないから、死んだ人も死にたくないと思っていただろうに死んでしまって、可哀そうだと思う気持ちからなく。親、兄弟、親族、友人の死の場合などでは、その人が死んでいなくなって、自分が寂しいからなく。それが悔しくってなくなどです。

義理で泣いている場合もあります。泣かないとその人に愛情がなかったと思われるのが嫌で泣いているのです。しかし、この偈ではこの場合については問題にしていません。

しかし、死んだ人を悔やんで泣く人は、死んだ人が何処から来て(生まれて来て)、死んでどこに行くのか知らないのです。死んで善い所に行くのであれば、それは泣くよりは、喜んであげるのが正しい態度ではないでしょうか。もっとも、死んだ人が何処から来て、何処に行くか分かる人はいないと言ってもいいのですが、それを知らないで、無意味に泣くということはおかしいとこの偈では述べているのです。


死ぬ人の 生前死後を 知らないで 知ることなしに 無意味に嘆く<582>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎雨安居中のゴータミー精舎では火曜日の夜の自主瞑想の始めに「初法輪経」を唱えることにしました。興味がある方は是非参加してください。心が穏やかになり、「眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明らかになり、光が生じる」気がします。(初転法輪経の言葉)


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

あすか
2014年08月27日 17:47
どこへ行くか、どうなるか、
わからないのに不幸として悲しむ、
というのも妙な話ですね。

泣くことは何にもならない。
では、何をすべきか。
考えてみましょう。

ななつ
2014年08月27日 23:57
凄い速さで生滅している心身の様子がまさに輪廻そのものです。
瞬間ごとに滅し続けているという恐ろしい状況に置かれているというのに、
(それ以上に、また生じてしまうことこそが恐ろしいのですが)
生きていることは死によって成り立っているというのに、
「ある生で身体が壊れること」だけを死として恐れ、悲しむのでしょうか。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
こころざし
2016年08月07日 07:22
雰囲気から心が共鳴する事は、良し悪しがあるように感じます。例が変ですが、お涙頂戴で詐欺をする人もいる様子ですね。状況に流されるのではなく、努めて客観的に見れるように→サティで今に気が付いていれるようにしたいです。