水滴で ハスの葉濡れぬ そのように 欲で汚れぬ 彼はバラモン<625>

○少年少女のためのスッタニパータ<625>
・・・
面白そうなおもちゃを見ても,
美味しそうなケーキを見ても、
欲しいと思わない子供はいないけど、
バラモンは欲しいと思わない。


第3 大きな章 9.ヴァーセッタ経 32.

○中村元先生訳
625
蓮葉の上の露のように、
錐の尖の芥子のように、
諸々の欲情に汚されない人、
──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。


○正田大観先生訳
631.(625) 
蓮の葉にある水〔滴〕のように、
錐の先にある芥子〔粒〕のように、
彼が、諸々の欲望〔の対象〕に汚されないなら、
わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(32)


○パーリ語原文
630.
ワーリ  ポッカラパッテーワ
Vāri    pokkharapatteva,
水    ハスの葉の ように

アーラッゲーリワ   サーサポー
āraggeriva        sāsapo;
きりの先に ように  からし粒

ヨー  ナ   リンパティ  カーメース
Yo   na    limpati    kāmesu,
人  ない  汚れ     情欲に

タマハン  ブルーミ ブラーフマナン
tamahaṃ   brūmi   brāhmaṇaṃ.
彼を私は  呼ぶ   バラモンと


○一口メモ
620偈から始まったバラモンに関する記述は、本質的でありましたが抽象的でありました。しかしそれがだんだん具体的になり、イメージとしてもバラモンとはどのようものか分かるように述べられて来ました。今回は蓮の葉とその上の水滴、また錐の先の芥子の種をたとえにして述べています。

今回の偈はダンマパダ401番と同じ偈ですから、それについて初めに書いた解説を再掲載します。

ハスの葉に水を少し落とすと、その水でその葉は濡れないで、水は小さな水滴になります。また先の尖った錐の先に、小さな芥子の種を乗せると、そこに留まらないですぐ落ちてしまいます。そのように、世間では欲望の対象になるものが目の前にあっても、それを欲しいというような欲望が心に少しも現われない人を、釈尊はそのような人をバラモンだと仰います。

 言葉も内容も美しい詩ですね。なんともいえぬ穏やかなバラモンの姿が目に浮かびます。もう解説は要らないですね。でも一つ付け加えれば次のことです。

 なぜ、バラモンには心に欲しいという欲望が少しも現われないのでしょうか?

 簡単な答えは、このバラモンの心からすべての煩悩がなくなっているからです。この答えでは物足りない人のために付け加えれば、阿羅漢になっていなくても、ダンマパダ360、361番、このブログでは2008年10月29日に記載した詩のような修行が出来ていれば、欲望の対象によって心に欲望が表れないでしょう。

眼において制御することは善いことです
耳において制御することは善いことです
鼻において制御することは善いことです
舌において制御することは善いことです

身において制御することは善いことです
語において制御することは善いことです
意において制御することは善いことです
一切処において制御することは善いことです
一切処において制御する比丘は
一切の苦から解放される

 各感覚器官からの情報によって妄想しないように注意することです。阿羅漢になるまではそれは必要なことです。

この詩の解説は次の記事を参考にしてください。

2008年12月の解説
*水滴でハスの葉濡れぬそのように欲で汚れぬ彼はバラモン
http://76263383.at.webry.info/200812/article_9.html
 
2009年10月の解説
*水滴でハスの葉濡れぬそのように欲で汚れぬ彼はバラモン(401)
http://76263383.at.webry.info/200910/article_14.html
この解説にはこの偈の因縁物語が述べられています。

2013年2月の解説
水滴で ハスの葉濡れぬ そのように 欲で汚れぬ 彼はバラモン(401)
http://76263383.at.webry.info/201302/article_28.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎10月8日まで雨安居中のゴータミー精舎では火曜日の夜の自主瞑想の始めに「初法輪経」を唱えることにしました。興味がある方は是非参加してください。心が穏やかになり、「眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明らかになり、光が生じる」気がします。(初転法輪経の言葉)


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

SRKWブッダ
2014年09月25日 09:25
欲求と欲望は、区別されるべきものである。

欲求とは、それが必要だというほどの意味である。その一方で、欲望とは、どうしてもそれでなくてはダメ(どうしてもそうでなくてはダメ)というほどの意味である。違いは、対象への固着の有り無しということである。

人々(衆生)が欲望の対象に固着を起こすと、あらゆる苦悩が降り掛かってくる。衆生は、それを欲望ではなく欲求の対象物だと思っているので、この苦悩から脱れることができない。その一方で、〈道の人〉は何かに固着するということがない。

***
あすか
2014年09月25日 13:03
入ってくる情報もできるだけ
制御するよう努力しています。

とはいえ、それには限界が。
難しいけれど、
情報が入ってきても動じないよう
心を鍛えるしかありますまい。
こころざし
2016年08月17日 23:01
私事ですが今日休みで、小5の長女とその友人を連れて、地元フラワーパークに行きました。諸々の体験教室がお目当てでしたが、その後パーク内を散策、見事な蓮池が2つ他あり目を奪われました。ですが、そこで止まり「欲しい」等は特別出てきませんでした。目他の制御行って参りたいです。