人間の 絆を捨てて 一切の 絆を捨てた 彼はバラモン<641>

○少年少女のためのスッタニパータ<641>
・・・
生き物は一人では生きていけない。
だからいつも誰かに頼ってしまう。
だけどできれば甘えずに、頼らずに、
自立して、生きていたい。


第3 大きな章 9.ヴァーセッタ経 48.

○中村元先生訳
641
人間の絆を捨て、
天界の絆を超え、
すべての絆をはなれた人、
──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。


○正田大観先生訳
647.(641) 
人間としての束縛を捨棄して、
天〔の神〕としての束縛を超え行ったなら、
一切の束縛について束縛を離れた者であり、
わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(48)


○パーリ語原文
646.
ヒトゥワー マーヌサカン  ヨーガン
Hitvā    mānusakaṃ   yogaṃ,
捨てて  人間の      絆を

ディッバン  ヨーガン  ウパッチャガー
dibbaṃ    yogaṃ    upaccagā;
天界の    絆を    越えてゆく

サッバヨーガウィサンユッタン
Sabbayogavisaṃyuttaṃ,
すべての絆を離れた人を

タマハン ブルーミ  ブラーフマナン
tamahaṃ  brūmi    brāhmaṇaṃ.
彼を私は 呼ぶ    バラモンと



○一口メモ
この詩のキーワードは「絆」と訳した「ヨーガ」です。前々回は「軛(くびき)」と訳しました。軛は絆なより、今ではあまり使わないので親しみのない言葉なので変更しました。しかし、「人間の絆を捨てて」とすると、多くの人々には抵抗があるように思います。

「人間の絆」は多くの人々が価値を置く言葉です。親子の絆、夫婦の絆、家族の絆などという言葉があり、それらは何よりも大切なことの一つと考えられています。ですから、「人間の絆を捨てて」などと言うと、仏教は不道徳な宗教だと攻撃する人もあります。

ですから、ここは難しいところなのです。仏教はでここで言う「人間の絆」とは、人間を縛りつけている束縛なのです。人間は欲に縛りつけられています。生きたいという思いに縛りつけられています。また、ある見解を持つとその見解に拘るのです。その見解を自分自身のように思い、その見解が批判されると自分が批判されたように怒るのです。さらに、無知のために迷っていてもその迷いを肯定し真実を求めようとはしません。

では、「絆」と訳さずに、「束縛」と訳した方がよいとも考えられますが、「束縛」と訳すと当たり前すぎて、いけないのです。「束縛」と訳すと当たり前すぎて、誰も何も考えません。しかし、「絆」であれば、皆考えます。今まで大切に思っていることを捨ててと言うのですから、なぜだろうと思うのです。

この詩でいう絆とは、生命の間の慈悲喜捨の心ではないのです。親と子の間にある執着、夫婦の間にある執着、家族間にある執着、束縛に気づくための言葉なのです。

仏教用語で説明すると、「ヨーガ」は四軛です。1、欲軛、2.有軛、3.見軛、4.無明軛です。四漏(四つの煩悩)と同じです。人間の軛とは、人間の四つの軛のことです。天の軛とは、神々にも人間と同じような軛がありますから、天の軛というのです。これらの軛を捨てると、輪廻から離れ、解脱して阿羅漢になるのです。そのために、ブッダそのような人を人格を完成したバラモンであると言われるのです。


人間の 絆を捨てて 一切の 絆を捨てた 彼はバラモン<641>


この偈の解説は次の記事を参考にしてください。
2008年12月
http://76263383.at.webry.info/200812/article_25.html
2009年10月
http://76263383.at.webry.info/200910/article_30.html
2013年3月
http://76263383.at.webry.info/201303/article_16.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎10月11日から10月17日まで熱海に瞑想合宿があり、ワンギーサ比丘はそれに参加しますが、ゴータミー精舎における朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催します。しかし、この期間の夜の自主瞑想会は行いませんので、御注意お願いします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

SRKWブッダ
2014年10月11日 07:50
縛る縄という場合には、人をそこから動けなくするものというほどの意味。軛という場合には、人の自由を奪い従わせるというほどの意味。軛は、それにまつわる一群を束ねて特定の方向に向かうことに従わせるものだからである。

人間の軛とは、情欲がそれにあたる。天界の軛とは、人智・福徳がそれにあたる。人々および神々は、それらによって流され、抗いようもなくその落ち込みやすいそれに落ち込んでしまう。そして、そこに落ち込んでいある間は覚ることがない。

ニルヴァーナを目指す修行者にとって、情欲は離れ捨て去るべきものである。人智・福徳には、耽溺してはならない。

***
あすか
2014年10月11日 14:14
天界には天界の束縛とは。
やはり目指すは輪廻卒業。
こころざし
2016年08月22日 21:00
絆を持ち、もたれ合って相互扶助で生きる大切さ・・みたいな見方を以前持っていました。ですがその姿勢には、絆や持たれれる相手を常に探す初動の様子があるのに気が付きました。つまり欲・渇愛的な所から発生しているように思います、何か怖く思う機会です。
そのようなものに影響されず、涅槃を目指して自己の成長を得るとの視点を持ってやっていきたいです。