この世での 善と悪との 執着を 超え清らかな 彼はバラモン<636>

○少年少女のためのスッタニパータ<636>
・・・
悪いことに執着しないのは
よくわかりますが、
良いことにも執着しないのが
バラモンだということです。


第3 大きな章 9.ヴァーセッタ経 43.

○中村元先生訳
636
この世の禍福いずれにも
執著することなく、
憂いなく、汚れなく、清らかな人、
──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。


○正田大観先生訳
642.(636) 
彼が、この〔世において〕、善も、悪も、
両者ともに、執着〔の思い〕を超え行ったなら、
憂いなく、〔世俗の〕塵を離れる、清浄の者であり、
わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(43)


○パーリ語原文
641.
ヨーダ   プンニャンチャ  パーパンチャ
Yodha    puññañca      pāpañca,
この世の  善と        悪と
 
ウボー  サンガムパッチャガー
ubho    saṅgamupaccagā;
両者の  執着を超えた

アソーカン  ウィラジャン スッダン
Asokaṃ    virajaṃ    suddhaṃ,
憂いのない 欲を離れた 清まった
 
タマハン ブルーミ バラーフマナン
tamahaṃ  brūmi   brāhmaṇaṃ.
彼を私は 呼ぶ   バラモンと


○一口メモ
この偈(ダンマパダ412=スッタニパータ636)の因縁物語は次の通りです。ある時、比丘たちは話しを始めました。「レーヴァタ沙弥の善(利得、功徳)はすばらしい。ただ一人で500人の比丘のための僧院を建立したるなんてすばらしい。」と。その時ブッダが現れ、その話を聞いて、「比丘たちよ、私の息子レヴァータには善(功徳)も悪もありません。彼には両者が捨断されているのです。」と語り、この詩「この世の善と悪と、その両方への執着超えて、憂いのない欲のない清らかな人、彼を私はバラモンと呼ぶ」と説かれたということです。

このレーヴァタ沙弥という方は、サーリプッタ長老の一番下の弟です。他の兄弟姉妹は皆出家していました。そこで心配した両親はレーヴァタに結婚をすすめました。結婚式の当日華やかに着飾った招待客から祝福をうけ、初々しい花嫁の姿に見とれていました。しかし、その時120歳の老婆が現れました。彼の目は老婆にくぎ付けになり、「すべての生き物が歳をとり、やがて老いて朽ちはてる」と悟り、その場で出家を決意しました。彼は僧院から離れたアカシヤの森の中で熱心に修行して、幼くして阿羅漢になられたのです。

この偈は阿羅漢について述べているのです。阿羅漢は心からすべての煩悩(悪)を捨てていますので、すべての行為は悪行為ではないのです。阿羅漢は善行為をしようとする意図もないのです。その意味ですべて阿羅漢の行為は善行為でも悪行為でもないのです。また、阿羅漢にとっては善、悪はないのです。そのことを知らずに、一般の人々は「善悪がない」と言えないのです。
(今回の解説は2013年3月のダンマパダ412番の解説の引用です。)


この世での 善と悪との 執着を 超え清らかな 彼はバラモン<636>


この偈の解説は次の記事を参考にしてください。
2008年12月
http://76263383.at.webry.info/200812/article_20.html
 
2009年10月
http://76263383.at.webry.info/200910/article_25.html

2013年3月
http://76263383.at.webry.info/201303/article_11.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎10月11日から10月17日まで熱海に瞑想合宿があり、ワンギーサ比丘はそれに参加しますが、ゴータミー精舎における朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催します。しかし、この期間の夜の自主瞑想会は行いませんので、御注意お願いします。


◎雨安居中のゴータミー精舎では火曜日の夜の自主瞑想の始めに「初法輪経」を唱えることにしました。興味がある方は是非参加してください。心が穏やかになり、「眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明らかになり、光が生じる」気がします。(初転法輪経の言葉)


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

SRKWブッダ
2014年10月06日 09:08
行為によって、何者であるかが知られる。けだし、行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる──からである。達した人にとって、それぞれの違いは明らかである。

ところで、初学の修行者には、それぞれの区別はほとんどつかないであろう。そんな場合でも、教えられてでも修行完成者を修行完成者だと知るならば、それは彼の修行の一つの糧となり得る。そこには、自らが目指すべきあり得べき究極のすがたが確かにあるからである。

***
あすか
2014年10月06日 18:13
お釈迦様のような
わかりやすい悟った方が
現代にも、いらしたらいいのに。

こうして知識として
学んではいるものの、
実際お会いすることができず
(お会いしていてもわからず?!)
歯がゆい。もどかしい。
こころざし
2016年08月21日 08:11
私事ですが、あるスポーツの大会で優勝して感動した・喜んだ時のビデオなどの記録を繰り替えし見る事で、その時の感動を再び追うのを毎日のようにしていた時期があります。その時の自分を少し冷静に見ると、そのようにして現実逃避していたとも見れます。今振り返ると「執着」になるかと思います。
良いと思った事、また良い行為に執着する事無く、無執着で今が生きれるようにしたいです。