清らかな 満月のように 淡白で 歓喜を望まぬ 彼はバラモン<637>

○少年少女のためのスッタニパータ<637>
・・・
姿かたちのない心は
月や鏡に例えられます。
雲がかかった月や
曇った鏡があるからです。


第3 大きな章 9.ヴァーセッタ経 44.

○中村元先生訳
637
曇りのない月のように、
清く、澄み、濁りがなく、
歓楽の生活の尽きた人、
──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。


○正田大観先生訳
643.(637) 
月のように、垢(汚れ)を離れ、清浄で、
清らかな信ある、濁りなき者を、
愉悦〔の思い〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者を
――わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(44)


○パーリ語原文
642.
チャンダンワ  ウィマラン  スッダン
Candaṃva    vimalaṃ    suddhaṃ,
月 ように    曇りのない  清浄な

ウィッパサンナマナーウィラン
vippasannamanāvilaṃ;
安静な 明るい

ナンディーバワパリッキーナン
Nandībhavaparikkhīṇaṃ,
歓喜と生存を滅尽した

タマハン ブルーミ  ブラーフマナン
tamahaṃ  brūmi    brāhmaṇaṃ.
彼を私は 呼ぶ    バラモンと


○一口メモ
今回の偈を何度か読んで、イメージを作ってみて下さい。雲がかかってない満月を想像して下さい。赤っぽい月もありますが、この詩の場合は青白い月のよう思います。そして、「歓喜の生活を望まない人」と言われると、どうでしょうか、皆さんがあんまり成りたくない人ではないかと思います。

このような人は大いに喜び、大いに楽しむ、また大笑いしたりしている毎日を送っているようには思えません。毎日、静かに生活し、笑うと言ってもそっと微笑むくらいです。これは私の勝手なイメージですが、皆さんは刺激の多い生活になれていますから、このような生活は物足りないと思うのではないかと思いす。

しかし、釈尊はこのような人をバラモンと呼ぶと仰っています。私はバラモンの内心は分かりません。バラモンの内心は私が想像するものと全然違うかもしれません。でも外観はそのように見えるのではないでしょうか。仏教を学ぶ人は人生を期待、願望で見るのではなく、ありのままの生活を観察して、如何に生きるか考えるべきではないでしょか。釈尊はその答えを教えています。実践するかどうか決めるのは私たちです。

この偈は、バラモンの心を、「曇りのない清らか月」で例えているのです。曇りとは煩悩のことです。「曇りがない」は煩悩がないということです。そうすると、清らかな月のように清らかな心になります。

二行目では、バラモンの心は、清浄で淡白であると述べています。清浄については今説明しました。淡白とはどういうことでしょうか。その説明は三行目にあります。歓喜と生存を望まないと言うことです。

世界中の人々はお祭りが好きです。どこの国でも、大騒ぎをするお祭りがあります。そこでは歓喜を求めているのです。しかし、バラモンは求めるものや嫌うものがありませんから、お祭りが嫌いというわけではないと思いますが、大騒ぎや歓喜を求めていないと思います。どちらかというと静かに生活が好きなのではないでしょうか。

「生存を望まない」とは死にたいと言うわけではありません。ただ、どうしても生きたいと思ってはいないと言うことです。バラモンでない者には、分からない感覚です。

歳を取ると、体力が衰えてきて、表現の上では似たような感覚になるような気がします。身体が疲れて、大騒ぎはできないし、大きな音が神経にさわるようになります。しかし、これはバラモンとは次元の違う問題です。レーヴァタ長老のように子供の阿羅漢がおられたわけですから、念のために申し添えます。
(今回は2013年の解説を少し修正したものです。)


清らかな 満月のように 淡白で 歓喜を望まぬ 彼はバラモン<637>


この偈は次の記事を参考にしてください。
2008年12月の解説
http://76263383.at.webry.info/200812/article_21.html

2009年10月の解説
http://76263383.at.webry.info/200910/article_26.html

2013年3月の解説
http://76263383.at.webry.info/201303/article_12.html



○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎10月11日から10月17日まで熱海に瞑想合宿があり、ワンギーサ比丘はそれに参加しますが、ゴータミー精舎における朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催します。しかし、この期間の夜の自主瞑想会は行いませんので、御注意お願いします。


◎雨安居中のゴータミー精舎では火曜日の夜の自主瞑想の始めに「初法輪経」を唱えることにしました。興味がある方は是非参加してください。心が穏やかになり、「眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明らかになり、光が生じる」気がします。(初転法輪経の言葉)


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

noritarou
2014年10月07日 11:08
肉体、精神も含め、自然(物質)界は、残酷にも、生命に生老病死をもたらします。
この詩は、闇を照らす清浄な月を、心の向かうべき道だと、わかりやすく示しているように感じました。

「人が悟りを得るというのは、水面に月が映っているようなものだ。映る月は濡れることなく、水の表面が壊れるようなことはない。」(正法眼蔵)
月と、己が心が一体のあるがままの世界を示し、私たちは悟りを開くために修行するのではなく、悟りの世界に居るから修行出来るという道元禅師の教えを思い出しました。
しかし、それも概念ですね。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
SRKWブッダ
2014年10月07日 13:04
noritarou-2014/10/07 11:08

このコメントには、いくつかの致命的な間違いがある。それが何であるか分かる人は、正しい道を間違いなく歩んでいる。それが何であるか分からない者は、今世で覚ることはおそらく極めて難しい。

ただし、このことはnoritarou氏が覚れないと主張するものではない。このコメントを本気で書いているとは限らないからである。

***
あすか
2014年10月07日 18:15
やっと刺激中毒の自覚が少しずつ。
静けさが心地良い。
と、心から思える日は近いのか?
まだまだかかるのか?
こころざし
2016年08月21日 08:18
私事ですが、以前暇が嫌いで何か予定を入れようと必死になり、そして何か喜び・楽しみ・感動出来る様な機会を1度でも設けたいと奔走?している時期がありました。実家在住で資金はあり、休みの時に様々なそのような事をトライしました。海外旅行も10数回行きましたが、それらに行けば喜び・楽しみが得られる・・ではない、と分かり→結局どこどこに行ったか等ではないと知りました。その後誰と共に○○出来たかが大事と(人との関りが大事と)学びましたが、今は自分一人でも心を成長させる修行が出来るかだと感じてます。
今まではイチジクの花を探していたような状態でしたが、地に足を付けて良く気が付いて、本当に大切なことを実践して参りたいです。