仙人は 余命少ない 死ぬ前に ブッダの説法 聞けないと嘆く<694>

○少年少女のためのスッタニパータ<694>
・・・
アシタ仙人は年寄だから、
お釈迦様がさとりを開く前に
自分は死んでしまうと思いました。
それで悲しくなりました。


第3 大きな章 11.ナーラカ経 16.

○中村元先生訳
694
ところが、この世におけるわたくしの余命はいくばくもありません。
(この方がさとりを開かれるまえに)中途でわたくしは死んでしまうでしょう。
わたくしは比なき力ある人の教えを聞かないでしょう。
だから、わたくしは、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」


○正田大観先生訳
700.(694) 
しかしながら、この〔世において〕、わたしの残る寿命は、長くはありません。
しかして、わたしのばあい、〔童子が正覚を得る〕中途で、命を終えることと成りましょう。
〔まさに〕その、わたしは、忍耐強さでは同等の者なき方の法(教え)を聞くことはないでしょう(成道後のブッダから教えを受けることができない)。
それで、〔わたしは〕苦悩し、災厄に陥った、悩苦ある者として、〔いまここに〕存しているのです」〔と〕。(16)


○パーリ語原文
699.
ママンチャ    アーユ    ナ     チラミダーワセーソー
‘‘Mamañ・ca    āyu      na     ciram・idhāvaseso,
私の・しかし   寿命は    ない   長い・この・残りの   

アタンタラー    メー     バウィッサティ    カーラキリヤー
Ath‘antarā     me       bhavissati       kālakiriyā;
それで、途中で  私の場合  なるでしょう     死亡に

ソーハン   ナ    スッサン        アサマドゥラッサ         ダンマン
Sohaṃ     na    sussaṃ          asamadhurassa          dhammaṃ,
その私は   ない  聞か(ない)でしょう  比類まれな忍耐のある方の  教えを  

テーナンヒ    アットー   ビャサナンガトー   アガーウィー
tenamhi      aṭṭo      byasanaṃ・gato     aghāvī’’.
だから      悩み     不幸になり       苦しむ


○一口メモ
アシタ仙人の嘆きは赤ちゃんのお釈迦様のことではなく、自分自身のことで悩み、苦しんでいたのです。そのために泣き出したのです。つまり、アシタ仙人のその時の年齢は正確には分かりませんが、かなりの高齢だと思います。仮に70歳だとします。お釈迦様は29歳で出家して、お悟りになったのは35歳ですから、お釈迦様が真理について説法するのは、その時から35年後になります。そうすると、アシタ仙人は105歳以上生きなければその説法を聞くことが出来ないのです。アシタ仙人は自分は105歳以上生きるとは考えられなかったのでしょう。それで「(この方がさとりを開かれるまえに)中途でわたくしは死んでしまうでしょう。」と言ったのです。

アシタ仙人にとって、ブッダになる菩薩が誕生したにもかかわらず、ブッダの説法を聞けないということは大変残念なことです。ですから、アシタ仙人は泣いたのです。アシタ仙人には可哀そうですが、それは釈迦族の人々を喜ばせました。そこでアシタ仙人は次善の方法を考えます。それは明日の偈の話しです。


仙人は 余命少ない 死ぬ前に ブッダの説法 聞けないと嘆く<694>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎12月6日(土)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会は、初期仏教月例講演会の開催のためにお休みいたします


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。御支援をお願い致します。


この記事へのコメント

あすか
2014年12月01日 07:48
アシタ仙人はブッダのお話を
聞けなかったのでしょうか。
私達は色々学べて幸せです。
MK
2014年12月01日 16:11
そういえば、アシタ仙人がお釈迦様の説法が聞けないと泣いた所までは有名でよく覚えていましたが、その後どうなされたのかは知りませんでした。

アシタ仙人が考えられた次善の方法とは何なのか。
明日の偈が興味深いです。
おみ
2014年12月01日 21:43
この偈に出てくる「忍耐」という語は「dhurassa」の訳だと思いますが、「諸佛の教え」に出てくる「khanti」とは違うものでしょうか?
辞書を引いてもわからなかったので、教えていただけると幸いです。
ワンギーサ
2014年12月02日 07:38
おみさん、おはようございます。
質問にお答えします。
「dhurassa」の辞書の見出し語は「dhura」ですから、それで引けば出てくると思います。
水野辞書には「①軛、荷物、責任、忍持。②先頭、先導者、末端。」とあります。この内の忍持を採用した訳です。
しかし、注釈書の訳では「精進」としてあります。ですから「asamadhura」は「精進たぐいなき方」となります。
「asamadhura」この言葉はお釈迦様が出家し、苦行し、悟りを開くまでの全体を表現していると思われますから、最高の忍耐と精進をしたというような意味だと思います。そこから「dhura」と「khanti」との違いを感じて下さい。
おみ
2014年12月02日 23:03
ワンギーサ長老、ありがとうございます。
なるほど、精進ということもあるのですね。
「khanti」は、揺らがないとか逃げないということでもあるとスマナサーラ長老の講演できいたことがあります。それも合わせて感じてみようと思います。
こころざし
2016年09月09日 06:27
ブッダの説法を伺える至福さを改めて思いました。それを得られる事が当たり前のようになっていますが、スマナサーラ長老がいらっしゃる前であれば・・の状態を思いますと、その差が明らかな様に思いました。改めて説法を伺える至福さを思いながら、日々の精進に繋げて参りたいです。