法津(のりつ)如来 の独り言

アクセスカウンタ

zoom RSS 食べ物を 得ても得なくても それでよい 平然として 木に戻るだけ<712>

<<   作成日時 : 2014/12/19 04:12   >>

トラックバック 0 / コメント 5

○少年少女のためのスッタニパータ<712>
・・・
生きることに執着しない人は
食べることにも執着しません。
食べてもよし、
食べなくともよいのです。


第3 大きな章 11.ナーラカ経 34.

○中村元先生訳
712
『(施しの食べ物を)得たのは善かった』
『得なかったのもまた善かった』と思って、
全き人はいずれの場合にも平然として還ってくる。
あたかも(果実をもとめて)樹のもとに赴いた人が、(果実を得ても得なくても、平然として)帰ってくるようなものである。


○正田大観先生訳
718.(712) 
『すなわち、〔施物を〕得たなら、これは〔これで〕善きことである。
得なかったとして、〔これはこれで〕善なることである』と、
まさしく、〔得ても得なくても〕両者ともに、
彼は、如なる者として、ただ、木〔の根元〕に戻る〔だけのこと〕。(34)


○パーリ語原文
717.
アラッタン    ヤディダン    サードゥ
‘‘Alatthaṃ    yadidaṃ     sādhu,
得たことは    何でも      よいことだ

ナーラッタン     クサラン    イティ
nālatthaṃ       kusalaṃ     iti;
得なかったことは  よいことだ    と

ウバイェーネーワ    ソー    ターディー
Ubhayen‘eva       so      tādī,
まさに両方ともに    彼は    そのような人

ルッカンウパニワッタティ
rukkhaṃ・v‘upanivattati.
木に・ただだけ・戻ってくる


○一口メモ
修家修行者が托鉢をして施しの食べ物を頂ければよかったと思うことは、皆さんもその通りだと思うでしょう。しかし、托鉢をして何も得ることがなくても、それをよかったと思うことに関しては、皆さんは何故だろうと思いませんか。これは普通の感想と異なることだと思います。

そもそも、「聖者の行」を実践する修行者は、托鉢は食べ物を求めるために行うのではないのです。それぞれの家々で、余った食べ物があれはそれを頂くということです。余った食べ物がなければ、頂かなくともよいという態度なのです。食べ物を頂かない日が一日や二日であれば何とかなるでしょうが、何日もそのような日が続けば、死んでしまうではないかと思うかもしれません。

しかし、出家者は「どうしても生きて生きたい」という渇愛という心の汚れを克服しようとしているのです。それが苦の原因だからです。ですから、托鉢で食べ物をもらえなくとも、それは望むことでもあるのです。食べ物に執着しないのです。そんな訳で、食べ物を得られても、得られなくとも聖者を志すものは善かったと思うのです。

この偈の後半で少し細かいことを言えば、中村先生の訳と正田先生の訳が少し異なります。中村先生は、樹を托鉢に回る家々の譬えとしていると思われます。すなわち、果実のなっている樹に行って、果実を得られなくとも平然として帰るという意味に解釈しています。

一方、正田先生は、木は家々の譬えではなく、托鉢に行った家々で何も得られなくとも、木に戻ってくると解釈しています。この場合の木に戻ってくるとは、木の根元に戻って瞑想をするだけだと言う意味だと思います。偈全体の意味に大きな違いはありませんが、私は正田先生の食べ物を得られなければ、木の根元に戻り瞑想をするという意味に取る方がよいように思います。


食べ物を 得ても得なくても それでよい 平然として 木に戻るだけ<712>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


〜〜〜〜〜〜お知らせ〜〜〜〜〜〜

◎12月29日(月)から1月4日(日)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサ比丘が熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090−2311−9317に御連絡下さい。


◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。御支援をお願い致します。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
托鉢はしませんが、
損した、得した、と
考えてしまう機会はあります。

損得でなく、皆の幸せを思い、
見合った分をいただいて
よかったと考える練習。
あすか
2014/12/19 07:34
食べ物への執着は、生存欲から来ているのですね。
りんご
2014/12/19 10:19
 (果実をもとめて)樹のもとに赴いた人が...
 
と言うの場合の果実は、甘露の実(=覚り,=智慧)のことである。樹は、覚りに向けた観(=止観)を行なう修行の樹の意。

すなわち、食べ物を得ることについても、覚りの完成についても、修行者は平静な心を保って行なうべきであると説いているのである。実に、そのような修行者が、道の糧を得、またついに甘露の実を得るのである。

***
SRKWブッダ
2014/12/19 11:54
生きるために必要な食糧を托鉢に行って、もらった物が多くても少なくても気にしない、ということまでは分かります。
でも、もらわなくても「よかった」と思うとは…。
理屈では分かっても、その境地に達するのは難しそうです。
カエルくん
2014/12/19 20:49
托鉢に行って食べ物を貰えなかったら、自分だったら餓死の恐怖に怯え・動揺し、心不安定になると予想されます。ですが、もし修行の中でその域を越えれたら、生存欲という大きな欲を捨てて、心が大変穏やかになるのでは、と思います。
内容が全く違う変な話を恐縮です。僕は結婚相手を探すのに苦労?し、振られたり・相手にされなかったり等々の悲惨体験には事欠かない様な状況から心の底から嫌になり「もう結婚なんてしなくていい。一生独身でいく」と決めた(捨てた?)早期に今の妻と出会い、とんとん拍子で結婚となりました。妻は世間一般で言うと、玉の輿(男が使える言葉か分かりませんが)に乗ったと言える様な人物です。
執着を捨てる大切さ、実践して参りたいです。
こころざし
2016/09/15 08:29

コメントする help

ニックネーム
本 文
食べ物を 得ても得なくても それでよい 平然として 木に戻るだけ<712> 法津(のりつ)如来 の独り言/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる