苦を知らず 生起を知らず 滅知らず 滅する道を 知らない人々<724>及び<725~727>

○少年少女のためのスッタニパータ<725.~727.>
・・・
欲ない人になることは
素晴らしい。
さらに智慧ある人になることは
もっと素晴らしい。


第3 大きな章 12.二種の観察経 1~4.

○中村元先生訳
724
苦しみを知らず、
また苦しみの生起するもとを知らず、
また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、
また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、──

725
かれらは心の解脱を欠き、
また智慧の解脱を欠く。
かれらは(輪廻を)終滅させることができない。
かれは実に生と老いとを受ける。

726
しかるに、苦しみを知り、
また苦しみの生起するもとを知り、
また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、
また苦しみの消滅に達する道を知った人々、──

727
かれらは、心の解脱を具現し、
また智慧の解脱を具現する。
かれらは(輪廻を)終滅させることができる。
かれらは生と老いとを受けることがない。


○正田大観先生訳
730.(724) 
「彼らが、苦しみを覚知せず、
しかして、苦しみの発生を〔覚知せず〕、
さらには、そこにおいて、苦しみが残りなく全てにわたり止滅する、〔寂止の境地を知らず〕、
しかして、苦しみの寂止に至る、その道(八正道)を知らないなら――(1)

731.(725) 
彼らは、心による解脱に劣る者たちであり、
しかして、知慧による解脱の〔可能なき者たちであり〕、
彼らは、〔苦しみの〕終極を為すことの可能なき者たちである。
彼らは、まさに、生と老〔の輪廻〕へと近づき行く者たちである。(2)

732.(726) 
しかしながら、彼らが、苦しみを覚知し、
しかして、苦しみの発生を〔覚知し〕、
さらには、そこにおいて、苦しみが残りなく全てにわたり止滅する、〔寂止の境地を知り〕、
しかして、苦しみの寂止に至る、その道(八正道)を覚知するなら――(3)

733.(727) 
心による解脱を成就した者たちであり、
しかして、知慧による解脱の〔可能ある者たちであり〕、
彼らは、〔苦しみの〕終極を為すことの可能ある者たちである。
彼らは、生と老〔の輪廻〕へと近づき行く者たちではない」と。(4)


○パーリ語原文
729.(724)
イェー   ドゥッカン    ナッパジャーナンティ
Ye      dukkhaṃ     nappajānanti,
彼らは   苦を        知らず

アトー    ドゥッカッサ    サンバワン
atho     dukkhassa     sambhavaṃ;
まして    苦の        生起を

ヤッタ    チャ    サッバソー    ドゥッカン
Yattha    ca     sabbaso      dukkhaṃ,
そこは    また   すべての     苦が

アセーサン    ウパルッジャティ
asesaṃ      uparujjhati;
残りなく      滅する

タンチャ    マッガン   ナ    ジャーナンティ
Tañca     maggaṃ    na    jānanti,
その・また  道を      ない   知ら(ない)

ドゥックーパサマガーミナン
dukkhūpasamagāminaṃ.
苦の寂滅に至る(道を)

730.(725)
チェートーウィムッティヒーナ    テー
Cetovimuttihīnā            te,
心の解脱なく             彼らは

アトー    パンニャーウィムッティヤー
atho     paññāvimuttiyā;
まして    智慧の解脱も(ない)

アバッバー    テー   アンタキリヤーヤ
Abhabbā      te     antakiriyāya,
できない     彼らは  終滅させることを

テー    ウェー    ジャーティジャルーパガー
te      ve       jātijarūpagā.
彼は    実に     生と老を受ける


731.(726)
イェー    チャ    ドゥッカン   パジャーナンティ
Ye       ca     dukkhaṃ    pajānanti,
彼らは    しかし  苦を       知り

アトー    ドゥッカッサ    サンバワン
atho     dukkhassa     sambhavaṃ;
また     苦の        生起を

ヤッタ    チャ    サッバソー    ドゥッカン
Yattha     ca     sabbaso      dukkhaṃ,
そこは    また    すべての     苦を

アセーサン    ウパルッジャティ
asesaṃ      uparujjhati;
残りなく      滅する

タンチャ    マッガン    パジャーナンティ
Tañca      maggaṃ    pajānanti,
その・また   道を      知り 

ドゥックーパサマガーミナン
dukkhūpasamagāminaṃ.
苦の寂滅に至る(道を)

732.(727)

チェートーウィムッティサンパンナー
Cetovimuttisampannā,
心の解脱をそなえ

アトー   パンニャーウィムッティヤー
atho     paññāvimuttiyā;
そして   智慧の解脱を(そなえ)

バッバー    テー    アンタキリヤーヤ
Bhabbā     te      antakiriyāya,
できる     彼らは   終滅させることを

ナ     テー    ジャーティジャルーパガーティ
na     te      jātijarūpagāti.
ない   彼らは   生と老を受け 


○一口メモ
今回は前回の散文のまとめの偈4つです。

724偈は、「苦しみ(苦諦)を知らず、また苦しみの生起するもと(集諦)を知らず、」「また苦しみのすべて残りなく滅びるところ(滅諦)をも、また苦しみの消滅に達する道(道諦=八正道)をも知らない」人々は、二種の観察をしてないので、知らないのだと述べているのです。

725偈では、そのような人々は心の解脱(心解脱)をすることもないし、まして智慧の解脱(慧解脱)をすることがないと説かれています。ですから彼らは苦しみの輪廻を終わらせることが出来ず、生まれること、老いること、死ぬことを繰り返すということです。

それに対し、726偈、727偈ではそれぞれ上述と反対のことが述べられています。すなわち、二種の観察をする人は苦諦、集諦、滅諦、道諦を知り、心の解脱か、さらには智慧の解脱を達成して苦しみの輪廻を止めて、生まれること老いることを繰り返すことはないのです。

ここで、心の解脱(心解脱)と智慧(慧解脱)について説明します。簡単に言えば、貪欲を完全に克服することが心の解脱です。無明を完全に克服することが智慧の解脱です。

ブッダは覚りを四段階に分けて説かれています。預流果、一来果、不還果、阿羅漢果です。預流果の覚りに至ってもまだ貪欲は残っています。一来果になるとそれがかなり薄まりますが、まだ残っているのです。不還果に至って初めてすべての貪欲が克服されるのです。そのため輪廻を止めることになるのです。しかし、まだ慢、掉挙(じょうこ)、無明等の煩悩が残っているのです。これらすべての煩悩を克服した方が阿羅漢です。阿羅漢には智慧の解脱によって成るのです。

慈悲の瞑想を怠らず、つとめ励んで、専心すれば心解脱を成就して、不還果の覚りに達します。それは慈経でも説かれていることです。またヴィパッサナー瞑想を怠らず、つとめ励んで、専心すれば、智慧が開発され、慧解脱を達成して、阿羅漢の覚りに到るはずです。


苦をらず 生起を知らず 滅知らず 滅する道を 知らない人々<724>

心解脱 慧解脱ともに 欠けるから 輪廻転生 止まることなし<725>

苦を知って 生起を知って 滅知って 滅する道を 知る人々は<726>

心解脱 さらに慧解脱 具わって 輪廻転生 消滅させる<727>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎12月29日(月)から1月4日(日)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサ比丘が熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

あすか
2014年12月31日 07:15
心の解脱と言っても
まだまだ残る煩悩の数々。
なかなか手強いものの
慈悲の冥想とヴィパッサナーなら
不可能ではないはず。
また一歩近づけるよう
今日もがんばろう。
りんご
2014年12月31日 09:10
今年最後の日。
できるだけ、心身の状態に
意識を向けて、すごしてみようと
思います。
てくてく
2014年12月31日 13:05
こんにちは。
てくてくでございます。

自分は、この偈で説かれている通り、苦を知りません。
自分は、苦を知らないことに、全くに異論はありません。

自分は、苦を知りたく精進致します。

苦を完に知るに、念入りに精進して参ります。

生きとし生けるものは幸せでありますように
SRKWブッダ
2014年12月31日 18:19
苦の覚知の第一は、「これは誰かを悲しませる」ということである。

苦の覚知の第二は、「これは他ならぬ自分自身を心底から苦しめるものになる」ということである。

苦の覚知の第三は、「これの本質は、人を悲しませ、苦しめるものである」ということである。

これら第一から第三までの「これ」は、まったく同じものである。世人は、「これ」を大きな楽しみであると見る。修行者が、この同じ「これ」が第三の覚知として苦であると認知し得たならば、かれは心解脱に大きく近づく。

***
こころざし
2016年09月19日 19:18
欲をなくす事、無知をなくす事、そのどちらも今の自分も見ますと、話しにならない印象を受けます。ですが、人生の目標として修行に取り組み、その状態を打破して欲のない・智慧のある人になれるようにしたいです。