繰り返し 輪廻に戻る 人々の 行く着く先は 無明の世界<729前の散文と729.730.>

○少年少女のためのスッタニパータ<729前の散文と729.733.>
・・・
無明とは分かってないこと。
分かってないから
上手くいかない。
上手く行かないから苦しい。


第3 大きな章 12.二種の観察経 6前の散文と6.7.

○中村元先生訳
 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存にもどらないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。

730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。


○正田大観先生訳
 (3)「『他の教相によってもまた、正しく、二なることの随観が存在するであろうか』と、比丘たちよ、もし、かくのごとく、問い尋ねる者たちが存するなら、『〔他の教相によってもまた、正しく、二なることの随観は〕存在するであろう』と説かれるべき者たちとして、〔彼らは〕存するべきです。では、どのように、〔他の教相によってもまた、正しく、二なることの随観は〕存在するのでしょうか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、一切は、無明という縁から〔発生する〕』ということで、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかるに、無明の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』ということで、これが、第二の随観となります。〔比丘たちよ、〕このように、正しく……略……。しかして、他にも、〔世の〕教師たる方は、こう言いました。


735.(729) 「彼らが、繰り返し、生と死の輪廻へと行き着くなら、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)から他の〔迷いの〕状態(来世)へと〔流転するなら〕、まさしく、無明によって、その赴く所がある。(6)


736.(730) なぜなら、この無明は、大いなる迷妄であり、それ(無明)によって、この、長きに輪廻するところとなったからである。しかしながら、彼らが、明知に至った有情たちであるなら、彼らは、さらなる〔迷いの〕生存へと赴かない(輪廻的あり方を超越する)」と。(7)


○パーリ語原文

734(729)前の散文のパーリ語原文は省略いたします。


734.(729)
ジャーティマラナサンサーラン
‘‘Jāti・maraṇa・saṃsāraṃ,
生と・死の・輪廻に

イェー   ワジャンティ    プナップナン
ye      vajanti        punappunaṃ;
そこへ   行く         繰り返し

イッタバーワンニャターバーワン
Ittha・bhāvaññathā・bhāvaṃ,
この状態から別の状態へ

アウィッジャーイェーワ   サー    ガティ
avijjāyeva            sā     gati.
無明によってのみ      その   行方が(ある)


735.(730)
アウィッジャー    ハーヤン     マハーモーホー
‘‘Avijjā         hāyaṃ       mahāmoho,
無明は        なぜなら・この   大きな迷い(であり)

イェーニダン    サンスィタン   チラン
yenidaṃ       saṃsitaṃ     ciraṃ;
それによって    輪廻は      長い

ウィッジャーガター   チャ    イェー    サッター
Vijjāgatā          ca      ye      sattā,
明智に達した      そして   その    人々は

ナ    テー    ガッチャンティ    プナバワンティ
na    te      gacchanti       punabbhava’’nti.
ない  彼らは   戻ら(ない)     再び生存に・と


○一口メモ
今回の前半の散文は、前回と同じ形式で述べられています。そのテーマ無明です。如何なる苦もすべて無明を縁にして現れるのだということです。それを観察することが第一の観察です。そして無明が残りなくない時は苦がないということを観察するのが第二の観察です。そして前回と同じように、この二種の観察を正しく、怠らず、つとめ励んで、専心すれば、慧解脱か心解脱が起き、輪廻を終滅させるということです。

729偈は、輪廻を繰り返す人々の行く着く先は無明があるだけだと述べています。結局、無明があるから輪廻を卒業出来ないで、本人は自覚してないのですが、そのために苦しんでいるのです。

730偈では、無明というのは大きな迷いなのだと述べられています。この大きな迷いによって輪廻を長いこと繰り返しているのです。この無明を克服して、明智に達した人々は輪廻を繰り返すことはない、もう生存には戻ってこないと述べられています。

ここで無明について説明しなければなりません。四無明という言葉があります。それは1.苦を知らないこと。2.苦の原因を知らないこと。3.苦の滅を知らないこと。4.苦の滅に至る道を知らないこととあります。これは、「二種の観察経」の始めに述べられた項目と同じになります。

他の方法で説明すると、すべての煩悩のもとには無明があるということです。無明は煩悩の原因とも言えます。無明がなければすべての煩悩はありません。無明は煩悩の王様です。将棋では王が詰めば、そちらの陣の駒はすべて、死んだのです。それと同じように無明をつぶせば、すべての煩悩をつぶすことになるのです。すべての煩悩がなくなれば苦しみはなくなります。


繰り返し 輪廻に戻る 人々の 行く着く先は 無明の世界<729>

無明とは 大きな迷い 暗闇だ 無明晴らせば 輪廻は終わる<730>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎12月29日(月)から1月4日(日)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサ比丘が熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

あすか
2015年01月02日 07:22
無明。
怒り欲に比べ難しいですが
今年は無明にもしっかり取り組みます。

今日も生きとし生けるものが
幸せでありますように。
りんご
2015年01月02日 10:35
無明が怖いのは、本人は自覚しずらい所
だと、個人的には感じました。

自覚が無いからこそ、苦を楽と
とらえて(思い込んで)、結果、苦しんでしまう
という感じ。怖いと思います。
カエルくん
2015年01月02日 23:52
朝、今日の記事を拝見して、「無明って何だろう」と一日考えましたがよく分かりませんでした。
分からないモノを「観察」出来ないし、困ったなと思いながら、もう一度記事を読み返したら、少年少女のためのスッタニパータに答えが書いてありました。
「無明とは分かってないこと」と。
なるほど。今日一日のよく分からないモヤモヤこそ、無明であり、無知だったのだなと。

私は何も分かっていない、だからこそ苦しむのだということは理屈では分かるのですが、「分かっていない」ことに気づくことは難しそうです。
てくてく
2015年01月03日 08:38
おはようございます。
てくてくでございます。

自分は、勘違いや思い込みが激しいので、自分が「分かった!」と思った時が、一番危ないです。これまで何度もそのように恥ずかしい思いをしているので、今年は、そこを慎重に行きたいです。分からないときは、分からないままに、でも真剣に耳を傾けて、解決に向けて努めて参りたいです。

生きとし生けるものは幸せでありますように
SRKWブッダ
2015年01月03日 10:30
無明とは、灯りがないというほどの意味である。つまり、目はあるのだが、灯りが無いので、周りの様子が何一つ見えないことを指す。したがって、目を開けてさえいれば(智慧の)灯りが差した時にすべてが明らかとなる。これが無明説の第一である。

次に、無明とは、今現在見えないので衆生がどうせ見えないと思って目を閉じてしまう愚を犯すことを戒めている。しかしながら、それでは灯りが差したときに見ることは叶わない。つまり、衆生はどうせ自分は覚る(=解脱する)ことはできないと断じてしまう愚を犯しやすい。これが無明説の第二である。

修行者は、目を開けていなければならない。これは要するに気をつけて遍歴せよということである。そして、修行者は自分がきっと覚る(=解脱する)ことができると信じなければならない。実際に覚ったとき、修行完成者は無明の真実を識ることになる。

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こころざし
2016年09月20日 06:26
私は無明なので、との言葉を使った時、失敗の繰り返しや諸々の頂けない状態等々の全てが、それで全て表現出来る様に感じます。その無明の状態を打破しないと、苦が続くと思います。無明から脱出出来る様にこちらで学ばせて頂き・実践し、そして少しでも智慧をつけて参りたいです。