洞窟と 言われる身体に 執着し 迷妄する人 解脱できない<772>

○少年少女のためのスッタニパータ<772>
・・・
人々は身体を心配し
身体の楽しみを求めています。
しかし、身体はおとろえ
病気して、死んでしまうのです。
どうしたらよいのでしょうか?


第3 八つの詩句の章 2.洞窟(身体)八詩句経 1.

○中村元先生訳
772
窟(いわや:身体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、
迷妄のうちに沈没している人、──このような人は、
実に<遠ざかり離れること>(厭離:おんり)から遠く隔たっている。
実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。


○正田大観先生訳
779.(772) 
〔煩悩の〕洞窟(身体)に執着し、多く〔の迷妄〕に覆われた者
――迷妄ならしむもの(欲望の対象)のうちに沈み、止住している人
――まさに、そのような種類の者は、彼は、遠離〔の境地〕から遠くにある。
なぜなら、世における諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、捨棄し易きものではないからである。(1)



○パーリ語原文
778.
サットー      グハーヤン    バフナービチャンノー
Satto        guhāyaṃ      bahunābhichanno,
執着して     洞窟(身体)に   多くのもので覆われた 

ティッタン    ナロー   モーハナスミン   パガールホー
tiṭṭhaṃ      naro     mohanasmiṃ     pagāḷho;
留まる      人は     迷妄の中に     沈んでいる

ドゥーレー    ウィウェーカー    ヒ    タターウィドー   ソー
Dūre        vivekā         hi     tathāvidho     so,
遠く        遠離から       実に   その類の     彼は

カーマー   ヒ      ローケー     ナ    ヒ     スッパハーヤー
kāmā      hi       loke        na    hi     suppahāyā.
欲望は    なぜなら  世間において  ない  実に   捨てやすく



○一口メモ
今回から、「洞窟(身体)八詩句経」が始まります。この経で、ブッダが解脱を目指して修行している人がなぜ解脱し難いかについて述べたものです。そしてこの困難をいかに克服すべきかが述べています。全部で八偈ですが、自分自身の問題として、その一つ一つをじっくり味わってみましょう。

この偈では窟(いわや)或は洞窟とは身体とは意味しています。身体とは煩悩という猛獣が住み着いている場所ということなのです。洞窟に留まりとは身体に執着してということです。人々は身体を心配し、身体の楽しみを求めています。寒さ暑さを嫌い、快適な涼しさや温かさを求め、美しいものを求め、耳を楽しませる音楽を求め、更に美味しい食べ物を求めます。そして、それらにありつければ人生は素晴らしいと思うのです。しかし、それらにはすべて苦が付きまとい、そしてそれらは苦しみをもたらすものあることを知ろうとはしないのです。

それらの人々は、「<遠ざかり離れること>(厭離:おんり)から遠く隔たっている。」と述べられていますが、この<遠ざかり離れること>とは、端的に言えば、解脱すること、覚ることです。つまり、これらの人々は解脱出来ないと述べているのです。

なぜならば、これらの人々は現状に安住しているからです。解脱することは現状からの解脱です。現状に問題があるから解脱するのです。そもそも現状に安住している人、不思議なことに現状に不満をもちながら現状に満足しているのです。これを「迷妄のうちに沈没している」と言うのでしょう。

そしてこの偈の最後に「実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。」と述べられています。これが解脱することが困難である理由です。


洞窟と 言われる身体に 執着し 迷妄する人 解脱できない<772>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎本日1月23日(金)18:30~21:00、ゴータミー精舎にて、スマナサーラ長老による「パーリ経典解説」がありますから、夜の自主瞑想会はお休みします。しかし、皆さん上記「パーリ経典解説」に参加してください。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

2015年01月23日 06:27
現状に不満があるからこそより美味しいものを求めたりするように思います。

そしてそれが生き甲斐になっていく、、ということだと思います。
身の丈修行者
2015年01月23日 08:02
自分の体験ですが、海外等旅行に行くときに身の保全をキープしたくて、絶対安全な・・を探そうとしました。ですが自宅に居たって絶対安全・・は成り立ちません。

当時は分かりませんでしたが「生き続けたい」という意欲で溢れている自分を感じます。執着ですね。

また、旅が終わると楽しみの喪失感?があり、次の旅を探す・計画する自分がいました。

ギーササ長老の分かりやすい>不思議なことに現状に不満をもちながら現状に満足しているのです。これを「迷妄のうちに沈没している」と言うのでしょう。

を拝見してはっとしました。まさに沈没していますよね。

時間も資金も限られますので、本当に自分に必要な事・修業にそれらを使いたいなと思います。

今日も幸いでありますように。
ななつ
2015年01月23日 08:44
おはようございます。いつもブログの更新をありがとうございます。
「迷妄のうちに沈没している」時に解脱できないということは、「迷妄のうちに沈没する」状態から離れることが出来れば解脱できるということですね。

>実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。

とはいえ、環境のせいにしていてはいけませんね。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
りんご
2015年01月23日 09:13
「体に執着するのは、苦しみの元」などど
理屈でわかったつもりになってました。
昨日、体調が少し優れない感じの時に
不安(どうしよう・・)のような感情が
でできました。

理屈と実際には距離があるなと思い返しています。
てくてく
2015年01月23日 11:06
こんにちは。
てくてくでございます。

今日の偈を読んで、忍耐ということばが浮かびました。

どうして人は、忍耐を苦しみと見るのでしょうか?
どうして人は、欲望を苦しみと見ないのでしょうか?

忍耐の苦しみは、一度覚えたら、一度覚えた苦しみをもう二度と障らなくなると思います。忍耐の苦しみは、障らないと覚えるから、忘れることなく、忍耐の苦しみには、終わりがあると思います。

でも、欲望の苦しみは、欲望の苦しみを人は、喜びと覚えるから、忘れられないのだと思います。忘れないからとらわれて、欲望の苦しみを隠す場所に留まるのだと思いました。

生きとし生けるものは幸せでありますように。
カエルくん
2015年01月23日 12:21
昨日、「必要十分生活」という本を読みました。30代の男性(会社員かな?)が書いた本です。
自分に必要な物の数を知っていて、服も靴も鞄も文房具も、「必要十分」な数まで減らして生活しているそうです。
性別も職業も違うので著者と全く同じ、というわけにはいきませんが、考え方は参考になりました。
おそらく「必要十分」は「知足」のことで、欲望を完全になくすことではありませんが、まずは私もここから、と思いました。
SRKWブッダ
2015年01月23日 12:40
迷妄とは、名称(nama)作用にもとづく心の迷いを指す。したがって、名称(nama)作用を滅した心解脱者は、迷妄から脱れている。彼は世間に汚されることがなく、穏やかで、死してのち不還となり、この世には戻っては来ない。

子供は子供らしいおもちゃや遊びに興じ執着する。しかしながら、成長して大人になるとそのようなものには見向きもしなくなる。これは世の一つの迷妄からの離脱である。

ただし、名称(nama)作用そのものからの離脱は生物的な成長やあるいはいわゆる心理的成長によっては達成されない。この情欲を超えた人が、名称(nama)作用を終滅することを得る。これは解脱についての一つの真理である。

***
こころざし
2016年09月27日 19:43
自分の体に基づいた色々な事を大事と思い、それを必死に守ろうとしているのが俗世間の日常かと感じます。ですがそれでは無明の状態で輪廻を繰り返す状態にしかならないと思います。以前自己啓発で学び、少し前に進んだ様でも結局繰り返し、根本的な解決には繋がらない事を思い知った様な状況を経験し、心からその状態を何とかしたいと実感しました。真理を教えて頂けたので、その思いを精進に繋げ、そして本当の意味で一歩抜き出せるようにしたいです。